酒田市阿部記念館に行って来た

 4日(土)曇天の一日、心配した雨にも遭わず、車で酒田まで往復した。清川から赤い橋を渡って最上川の対岸に行く。北上して、右に登る坂道に入るとやがて松山小学校があり、その隣の古い低い家が「阿部記念館」だった。約束の11時にぎりぎりで到着。電話でお話しして訪問予定を決めた佐藤さんとお初にお目に掛かる。佐藤さんのおかげで地元の方お二人(お二人とも佐々木さん)に話を聞くことが出来た。お忙しい中、感謝、感謝。

 ただ堀三也については情報がほとんどなく、お二人も会ったことはないという。

 

 三也は山寺尋常小学校卒業後(次郎同様に松嶺小学校の高等科か?)、東京の「豊山(ぶざん)中学校」に入学、卒業しているが、この学校は文京区にある真言宗の「護国寺」が設立したものである。どういう経緯で三也が上京し、この学校に入ったのかは分からないそうだ。

 兄の次郎が山形中学校で問題を起こし放校となり、東京の「京北中学校」に転じたのでその影響があるのかも知れない。明治32年創立の京北中学は井上円了の創設になる「哲学館」(後の東洋大学)の系列であり、仏教系と言うべきかも知れないが、哲学館事件に見るようなピューリタン系の倫理学も教えられていた。できたばかりの京北中学に、最終学年で転入学した次郎にとっては第一高等学校受験までのとりあえずの学校ではあったろうか。次郎の学資は長姉ますの嫁ぎ先の加藤氏が出したようだ。

 ここで、三也の豊山中学とは仏教系中学校という関連が見えるが、今のところなんとも言えない。井上円了の家は浄土真宗のようで、哲学館の設立された寺、「麟祥院」は臨済宗である。三也の学資については、次郎と九重の婚約問題が絡んでくるので別に書く。

 

 記念館には阿部兄弟、一族の写真に並んで三也の晩年(70歳くらい)に近いと思われる写真が掲示してあった(集合写真から取り出したもののようだが)。大正8年4月、31歳の軍服の写真(3歳の長男を亡くした三ヶ月後)しか見ていないので、この威厳のある立派な紳士の顔は、陸軍大佐、昭和通商の社長としてさもありなんと思えるものだった。なんなら次郎よりも立派だ。説明の中に高田連隊長とあるが、立山砲兵第1聯隊のことだろう。なお、この聯隊についての資料はネットで探してもほとんど出てこないのが不思議だ。

 

 寶蔵寺曹洞宗)の住職、佐々木喆(てつ)について教えていただくことが多かった。この方は昭和34年、長兄一郎の葬儀に駆けつけ、通夜を済ませた直後、目の前で三也が大喀血し亡くなるのを見た人だ。櫛引村の出身で、口減らしのように松山の佐々木家の養子になった。東京の仏教系の大学に進み、女学校の先生をした。その後従軍僧となったという。この辺の縁で三也とつながっているか。昭和18年頃は昭和通商に勤務し、マレーシア、タイ、ビルマなどに滞在したようだ。復員後地元の村長になり?(村名失念、この辺自分のインタビューが下手なせいで記憶曖昧)、昭和30年に寺の先代の歿後、跡を継いだのだという。インドまで行って仏舎利を持ち帰り、箱根に納めたということもお聞きしたが、それは富士仏舎利塔平和公園のネール首相からいただいたものとは別なのか?(そっちは日蓮宗のようだ)

 (佐々木さんからの資料による訂正部分については、後の記事「雲外佐々木喆山 寶藏寺第23世住職について」で書き直しました。)

 自分が勘違いしていたのは、一郎の葬儀が酒田の実家で行われたように思い込んでいたことだ。一郎は糧穀加工会社の社長をしていたので、通夜はその山形市社宅自宅で行われたのだ。だからこそ三也は仙台で病床にある次郎に日帰りで会いに行けたのだ。親族は旧県庁前の旅館に泊まったようだ。三也の遺体は翌日東京に搬送された。

 

 三也は、妻、九重の実家堀家を継いだのだが、この辺の姻戚関係は複雑である。九重さんの写真がないか聞いたが、見たことがないそうだ。(もしかしたら九重の母ゑいの実家、山形市八日町の豊田伝右衛門家にあるかもしれない)

 九重は、山形西高卒業生名簿で見ると、明治40年山形高等女学校第5回卒業生「堀 九重」に間違いないと思われる。すると三也の豊山中学卒業と時を同じくすることになる。

 

 鶴岡カトリック教会発行の冊子『神の小羊 鶴岡カトリック教会略史(荻原泉1996)に「松山町の「阿部家の」人々を巡って」という章があり、そのコピーをいただいた。上記の事もそれに拠った部分が多い。三也の二人の娘さんの入った修道女会が大阪にあったことも分かった。三也の洗礼の記録は未詳である

 

 長兄の一郎は山形中学校(現山形東高校)農業専修科(村山市楯岡にあった)の二期生で、明治32年に卒業している。一生涯、県の農業指導に携わった人である。公平無私の人格者で、様々な役職に選ばれた。山形市宮町(宮町は糧穀の会社で自宅は六日町)に居住したが、戦後は郷里の山寺村に帰ることも多く、地元の青年に講義することも多かったという。三也より7歳年長、次郎の2歳上である。

 

 三也の大森区(現大田区)への転居について、前記『神の小羊』によると、昭和18年には「品川」へ移っており、親類が訪ねてみると宏大な邸で「余りにも立派なお屋敷でびっくりした」という。土地柄を考えると、この転居は空襲を避けたというよりは財界の誰かの邸を譲り受けたのだろうと思われる。しかしこの地域には軍需産業が集中していたこともあり、昭和20年4月15~16日の城南大空襲で焼き払われてしまった。三也の邸も被災したであろう。三也はなぜか戦犯にはならなかったが、戦後をどのように生きたのだろうか。三男三女だったが長男は3歳で病死、長女は大阪の愛德修道女会に入って貧民街(釜ヶ崎?)で働いていたらしいが詳細不明という。母の九重より前に亡くなっている。次女も大阪の愛德童貞会に入会したが、戦争のためフランス本部での修練ができず、上海で修練したという。誓願前に結核に罹患。修練途中で帰国し、病床で沢出神父の前で無期誓願を立ててから神に召されたとある。三女も修道院を熱望したが病気で叶わなかったと。両親の思いはいかばかりだったろう。次男(この方は洗礼を受けている)が戦後「三位堂」という薬局を開いていたが、道路拡張と地下鉄工事のため今はないと。三男については、今何も分からない。

 

 昔は「上郷村山寺」だったが、明治、大正時代、小学校の優等生に賞品として硯箱を授与していた。記念館に残されているものを拝見させてもらったが、これは三也兄弟の祖父(父富太郎の叔父だが、富太郎が七郎右衛門の養子になった)阿部七郎右衛門と妻のわかの(竹岡家長女)が長年数十個ずつ寄付したもので、箱の裏にその旨が朱書してある。一つにはわかのの還暦記念と書いてある。

 富太郎は余目小学校の校長をしたが、明治31年に県視学となって山形市に移った(この時に次郎も荘内中学から山形中学に転じた)。明治43年山形市三日町(昭和24年の地図では光禅寺の東にあるので鉄砲町になるのか?)に県立養徳園(感化施設)ができると初代園長になった。