梅雨に入って、鶯の声もさすがに絶えがちになった。
更新しようと記事を書くが、途中でなぜか記憶できなくなって終わってしまうことが繰り返され、ちょっと疲れた。あやふやな知識を確認したり調べたりしながら書いているので時間ばかりかかる。
調べることが次第に第1次資料に及んでくると、本当に先人たちのマメな資料調査研究の素晴らしさに敬服する。また資料を残した先祖様たちにも感謝である。
堀三也関係でカトリックについてあれこれ調べてみた。
その中で、ネットで見た山口県の某高校地理歴史部が1999年にフランシスコ・ザビエルについて調査したレポートが素晴らしかった。カトリック系の高校で、地元にザビエルの姉の子孫が神父としているというのでインタビューしている。
大航海時代、ポルトガル国王の下、宣教師として日本に来た彼等異教徒に対し、当初日本人は恐れを持っていなかっただろう。秀吉が日本人の奴隷売買を禁じ、禁教の方向に進んでゆくにつれ、キリスト教を邪教と見なすようになったのだろう。当時のポルトガルとスペインは世界を二分して征服する考えだった。これは欧州で行われた「布教保護権」(国王が教会を建設しパトロンになることで、その教会の周辺地域を自分の領地とすることができた。また聖職者を任命する権利も得られた。ただし教会を保護し、経済的に支える義務があった。)を新世界にも当てはめたものだった。アフリカ、アメリカ、インドと進んで中国、日本にまで到達したのが16世紀。
宣教師は布教が使命だから世界の果てまでも行くわけだが、旅費などはローマ教皇でなくポルトガル国王が持つのだから、両者に服する姿勢が必要である。日本侵略の手伝いをしたり、日本人奴隷貿易に荷担した宣教師もいたのだろう。この辺から日本人のキリシタンバテレンへの不信感が生じているのだろう。先述のレポートなどでは、イエズス会に世界侵略の意図があったわけではないが、次第に聖(教皇権)が俗(王権)の下になってしまったという実情もあったのだろうとされる。
長い禁教の時代になっても「宗門改」はなくならなかった。17世紀になって、イタリア人宣教師シドッチが屋久島から九州に入った。江戸に送られたシドッチを、新井白石が尋問した。なぜ禁教しているのを知りながら密入国したのか?…江戸のキリシタン屋敷に幽閉されたシドッチは、同屋敷の世話係の老夫婦(親が切支丹)に、禁じられた洗礼を施したことによって地下牢に入れられ、衰弱して亡くなる。
さて、日本軍人とキリスト教信仰のことになるが、山本信次郎海軍少将の言葉で、その考え方を知ることが出来る。以下『軍服の修道士 山本信次郎』(皿木喜久)による。
神奈川県藤崎市片瀬(旧鎌倉郡川口村)の元名主の家に生まれた山本は、フランスのマリア修道会の神父、アルフォンソ・ヘンリックの影響でマリア会の設立した暁星学校に入学、寮生活をする。山本の父が江の島対岸の山に持っていた洋館を修道士たちの避暑地として貸したのが縁だった。少年山本は彼等と友達になり、遊んだ。その流れで、できたばかりの暁星学校に中学の4期生として入学した。10番目の生徒だった。
寮生活の中で、修道士たちの無私無欲、目上への絶対服従、厳しい規律と誓いの実行を見る。その拠って来たるところは彼等の宗教にしかないと確信した山本は、父親が「ヤソは危険な思想である」と反対するのを説得し、明治26年(1893)のクリスマスイブに洗礼を受ける。洗礼名はステファノ。
卒業後の進路について、師のヘンリックは海軍を勧める。海軍兵学校を経て海軍少尉候補生となる。初陣は北清事変である。彼の元に師のヘンリックから手紙が来る。「軍人として生命を国家に捧げるのは、カトリック信者としても名誉であり義務である。いやしくも他人に後ろ指をさされぬように気を付け給え。」
山本の回顧、「先生は仏蘭西人である。この異邦の方が日本人の愛国心を激励する。私はもとより愛国の至情からして、一には身を海軍に投じたもであり、…いずれの外国人にも劣らない愛国心をいささか持っていると自信していた。私はカトリック信者として、愛国は道徳であり、之が発露は神様の望ませらるることであると、かねて教わっており、又そうであると確信していた。しかしあの場合に、国を異にし、あるいは国家としては利害は必ずしも我が日本と同じうしない仏蘭西の方からかかる激励の辞を受ける。あに感慨無量ならずとせんや。」
「我がカトリックの教会は道徳の指導者であり、これが奨励者である。その司祭、ことにその高級教職者、高級牧者である司教以上がこの道徳を信者に教えるのは、我が主イエズス様より与えられた義務であり、又権利である。
われわれ信者たる者は謹みてこれに傾聴すべきである。神に仕えろ、上長の権に従え、これを尊べ、親に孝行をせよ、他人を愛し、祖国を愛せよなどとは、彼等が神の権によりて教ゆる所である。これは時と処とを超越する。その内国人であると外国人であるとを問わないのである。しかもこの教示がその時を得る時に、我等はことに感激せざるを得ないのである」
昭和15年(1940)11月30日、関口教会での「紀元二千六百年奉祝、東京教区式典」では、「今さら申すまでもなく、私共カトリック信者は、不謬なるものとあくまで確信する我が天主公教会が、その創立以来ほとんど二千年の長きにわたって止まざるところによりまして、上御一人に対しては徹底的にこれを敬い、これを愛し、忠節を尽し、また常にその萬福の為に祈り、皇国に対しては愛国の至誠を致し、国憲を重んじ、国法に遵い、また政府に対してはその正しい命令に従うものでありまして…」「しかも以上は空漠たる信念や、変転極まりなき世相の上に立つのではなく、実に確固不抜のものでありますので、我等カトリック信徒がこの祝典を寿ぐ上において、他のいかなる信念を有する者にも劣らぬ誠意を傾ける所以は、まったくここにあるのであります」
「教育勅語」の示す道徳、皇国への「忠」は、彼の信仰にとって全く矛盾するものではなかった。考えてみれば、仏教の僧侶が仏陀を尊敬し、その教えに従いつつ鎮護国家を祈るのと同じではないか。ならば「教育勅語」に敬礼することに何のためらいがあるだろうか。天皇が国民に対し、個々の信仰を捨てろとは言わないだろうし、日本国存続のために戦うのは信徒として当然なのだ。
なお「教育勅語」は、初めプロテスタントの中村正直が草案を練ったが、それを井上毅が破棄し、元田永孚と相談しつつ書き直して出来たものである。中村が「天」だの「神」だのを連発するのをばっさり切り捨てた。「君主は国民の良心の自由に干渉しない」
暁星中学には山本の10年後輩に岩下壮一もいる。一方、堀三也は豊山中学(現日大豊山高校)出身である。こちらは仏教系なので、山本とはまた違う経歴になる。こちらは酒田の阿部家の信仰が幼児から影響しているのだろう。もちろんイタリアへの赴任、愛児の死などが入信のきっかけではあるのだろうが。
〈追記〉
ここまで書いて、まだ引っかかることは、一つは切支丹大名(大村純忠)の寺社破壊のこと。もう一つは、維新後の廃仏毀釈騒動とその後の不敬事件との関連である。
前者については、イエズス会宣教師たちの中に異教徒(偶像崇拝)への蔑視、敵視が全くなかったとは言えないだろうということ。信者を教唆して異教の文化を破壊させることは日本人の反感を招いただろう。しかし16~17世紀の世界と19~20世紀の世界は違い、教会も日本人も変わったと言うべきか、あるいは依然として問題を引きずっていると言うべきか。この辺は、最新の研究で論じられているようなので、いずれ読んでみようと思うが今のテーマからは外れすぎる。BLM騒動でも見られるが、コロンブスへの評価もずいぶん変わったようだ。
後者は日本に於いてキリスト教以前の神仏儒の争い、そして維新後の神仏分離からの廃仏毀釈を前提にすれば、内村鑑三不敬事件への仏教界からの激しい非難がそれらの延長にある(遠因である)のではないかということ。宗教対立に過敏になっていた(廃仏毀釈の被害者)仏教側がキリスト教に過激に反応したということかもしれないし、二百数十年間の日本人の中の邪教切支丹イメージがそれを(新聞報道を通じて)助長したということでもあろう。
山本信次郎に対しても、昭和2年(1927)長崎で日本人初の司教が任命されたことへの感謝の中で、「教権に絶対服従」「法王陛下」という言葉を使ったことが仏教界から非難され、「仏教時報社」から「山本少将膺懲論」を唱える冊子が出版された。宮内省御用掛をつとめることも「差し支えなき行為であるやいなや」と攻撃された。
また昭和7年(1932)井上日召の「血盟団事件」では、脅迫文を送られた。山本が皇室に累が及ぶのを恐れ宮内大臣に進退伺いを出すと、宮内省からは「心配に及ばず」との御沙汰があった。(前掲皿木著)