これから調べたいこと

 堀三也に関する資料探しは一段落。公刊のもの、ネットで公開されている資料はこのブログでも紹介してきましたが、これ以後はもっと「生」の情報になるでしょうから、提供者の許可無くブログには公開できません。

 したがって、ここでは「軍人のカトリック信仰」といった一般的なテーマに絞って書くことになると思います。自分には「考証癖」があって、気の向くままに資料探しをするのですが、「知りたい」というただそれだけでは、系統だった研究にはなりません。年寄りの暇つぶしの次元ですので、そのつもりでお読みいただければ幸いです。

 以下、そのさわり。

 

 ジョン・ロックの『キリスト教の合理性』(加藤節訳・岩波文庫を読み始めているが、「キリスト教を知らない異邦人に対してキリスト教的神の教えは有効なのか」という疑問についても説明してある。「信仰の法」と「行いの法」に分けて考えていて、ユダヤ教の律法を知らない異邦人でも、自然法としての理性にしたがって正しく生きているならば、それは神の御心にかなうものだということのようだが、よく飲み込めていない。素直に読める良訳だと思うのだが、自分の頭が「考証癖」なので「理論的思考」に向いていないのだろう。

 かなり前に観た映画のシーン。初めて南米奥地に来た宣教師が、船に乗って来た原住民に対して布教しようと聖書を示し、「この中に神の言葉がある」と言う(通訳いたのか?)。原住民は聖書に耳を当てるが何も聞こえないので怒って聖書を河に棄ててしまう。それは宣教師にとっては神への冒涜であり、王への反逆だから、同行した兵士が原住民を殺してしまう。未開の民族には神を理解することはできないという蔑視が感じられるのではないか

 建国神話を持ち、その神々の末裔が君主となっている国。キリスト教的神と王権の関係が、この国ではどう当てはめられるのか。宣教師たちはどう考えたのか、ローマ法王の考えはどのようなものだったのか。第二次大戦の開戦回避、終戦工作にバチカンと日本がどのように関わったのか。

 ヨーロッパのキリスト教国同士が戦い続けた歴史の中で、国家と宗教(宗教家)の関わりはどのように折合いがつけられたのか。その折合いの仕方が、異教徒の国々との関係にどうスライドしたのか、しなかったのか。

 

 

 もう一つの旧出羽村関係のことだが、自分の母方の大叔母が、大正時代に出羽村の大内家(清三郎家との関係は不明)に嫁いでいることが分った。世間は狭い。