石川明人『キリスト教と戦争』を読む

 石川明人『キリスト教と戦争』中公新書2016)を読んだ。ジョン・ロックを苦労して読んだ直後だった所為か、分りやすかった。その内容がテーマに関する事実を網羅的に述べていることも分りやすさの理由だろう。(キリスト教国が愚かしく残虐な戦争を繰り返してきた歴史も繰り返し読むはめになった)

 アメリカ人の75%はキリスト教徒だそうだ。しかし、敵(仇)を愛し、右の頬を打たれたら左の頬を差し出す人は非常に希で、それを完璧に実践しているアーミッシュは非常な変わり者と見なされている。確かに、自分の娘を殺されても怒らず、ただちに犯人を抱擁し赦すということが本当にイエスの教えに沿うことなのかは疑問だ。経典宗教において字義通りの解釈を進めると、こういった人間の本性・自然な心情に逆らう結果になる。

 

 アメリカ軍の「従軍チャプレン」についての記述が興味深かった。エノラ・ゲイの乗組員に対する祈りは、もちろん、瞬時に数万人を虐殺することが神の意志だ、などというものではなく、彼等が無事に任務を終えて基地に戻れるようにというものだった。

 自分の身が危ういときの正当防衛は許される。友人が暴漢に殺されそうなときに、それを見過ごすのは罪だ。神学においても、「正しい戦争」、「聖なる戦争」として、戦争の正当化が行われてきた。

 キリスト教徒が多い国であっても、本当に宗教的な理由で(先のアーミッシュのように)兵役を拒否する若者はそんなに多くないのではないか。自国の存亡がかかっている時、民族の尊厳を守るためには進んで志願するだろうし、ヨーロッパの国々は2000年にわたってそれを認めてきた。だから、なぜキリスト教徒が戦争するのか?などというナイーブな疑問を持つのは日本人くらいのものかもしれない。なにせ日本人は73年前に戦争を放棄し、自衛(正当防衛)のための戦力さえも持たないという、まさにイエスの教えどおりの誓いを立てた国なのだから。日本こそがたぐいまれな、キリスト教の精神を実践する国家だと言えるのではないか。事実、日本国内の各キリスト教団体は、憲法9条の改正、平和安全法案等、日本を再び戦争のできる国にすることへの反対を宣言しているではないか(と著者が言っているように感じた)。

 

 要するに、「戦争」自体が、善悪の判断も及ばない混沌の中にあり、宗教的倫理観をもってしては如何ともし得ないものなのだ。それこそ人の主(父)である神が来臨し、すべての武器を無効にする(竹取物語の月世界人か)なんてことが無い限り、(つまりその前には誰もが平等に従わざるを得ない、圧倒的な「力」によってしか)平和は実現しないのだろう。(ここから最強軍隊へとつながるのはもうすぐそこである。)

 

 もう一つ興味が持たれたのは、聖書の言葉に戦争に関する語彙が多用されているという点だ。宗教は戦いだと言うなら、そもそもから戦争は否定されていないことになる。

 キャサリン・アレン・スミスによれば、中世盛期の修道士にとって「戦争は単なるこの世の悪ではなく、自己認識へいたる道であり、キリストにならうための方法」であり、「軍事的な言語やシンボリズムは、修道士のアイデンティティに深く織り込まれていた」。

 厳格なルールのもとで共に生活し、共に戦うという点で、軍隊と修道院には確かに類似性があった。修道士たちは自らを「神の陣営」にいる「主の隊列」であると認識することで、連帯や結束を強めていくことができた。

 アルフレード・ファークツによれば、イエズス会創立者イグナチオ・デ・ロヨラは元軍人で、「宗教的博愛主義のために軍事的本能につけこもうと」し、「種々の教会組織も、軍事的な形態と心的傾向を利用してきた。」

 ドワイト・D・アイゼンハワー大統領は、全米キリスト教協議会の指導者との懇談の席で、「軍人の使命感は牧師の召命感と同じ」と前置きし、軍人の職務を牧師に等しい義務感をもってやってきたという趣旨のことを述べた。彼は大統領就任式の祈祷文を自分で書くほど信仰深く、原爆投下に対しては戦略上不要でありキリスト教道徳にも反するとして反対したそうである。

 

 内村鑑三は、「イエスは軍人を愛し、軍人はイエスを愛した。」と言い、聖書に出てくる百人隊長の例を挙げ、「異邦の軍人に、まれに見る篤き信仰があった。」とし、キリスト教信仰は「戦闘の一種」であり、闘志なき者には維持することのできないものであると主張する。さらに、「イエスは平和の君であるが、その部下として忠実なる軍人を求めたもう。そして軍人が福音の戦士と化せし時に、最も有力なる平和の使者となるのである。」と言う。

 また、明治時代の日本に於いては、「日本にあっても、福音は軍人によりて伝えられ、軍人によって受けられた」と言う。札幌農学校のクラークは南北戦争を戦った軍人であり、日本の「軍人」とは「武士(士族)」のことであって、武士道精神とキリスト教とが非常に親和的であったということである。

 内村鑑三日清戦争を「義戦」としたが、日露戦争では考えを改めて「非戦論」の立場をとった。しかし、石川明人の論文『非戦論と軍人へのシンパシー:内村鑑三の軍人観』(http://hdl.handle.net/2115/50533)を読めば、その非戦論の実像が、我々が予想するような、与謝野晶子「君死に給ふことなかれ」のようなものでないことは明らかである。

 やはり軍人とキリスト教とは親和性があるということ。山本信次郎(軍服≒修道服)や堀三也以外にもキリスト教徒の日本軍人が多くいたという事実。キリスト教指導者層も(戦後の平和主義とは違って)軍人を認めていたという事実。因襲的にヤソ嫌いの古参兵がキリスト教徒入営者にリンチを加えるということが、実はそれほど軍全体の意識ではなかっただろう(時期的な違いは大きいか)ことを知るべきである。

 

 中公新書を買いに行ったが八文字屋になかったので県立図書館から借りてきた。ついでに『余はいかにしてキリスト信徒となりしか』岩波文庫と、山崎渾子『岩倉使節団における宗教問題』思文閣出版2006)を借りてきた。前者はずいぶん前に読んだので懐かしく、また記憶に無いことも多かった。後者が意外に?面白そうで期待している。