ジョン・ロック『キリスト教の合理性』を読む

 『キリスト教の合理性』を読んでみた。17世紀末のイギリス知識人が、いかにキリスト教の信仰を人間の理性となじませる?かについて考えたもののようである。

 自分のような、日本人的な神仏習合の信仰心をどこか心の底に置いて生きている者にとっては、非常に分りにくい書物だった。というか、この本は作者がただひたすら『新約聖書』のみを使って、その「合理性(Reasonableness)」を証明しようとしたものなのだが、キリスト教世界に生きる作者が「自明」のことを反復しているに過ぎないという感じが強い。

 

 まずイエスの言動を追って、なぜそのように言い、行動したかという説明をする。イエスは自分がメシアであるとは、弟子に対しても明言(公言)しなかった。なぜか。それは、当時のユダヤ人社会では偽預言者、偽メシアが頻出していて、神を騙る偽物は「律法」によって厳罰にされたからだ(結局は死刑になったのだが→死刑ユダヤ人ではなくローマ人が決める)。当時の考えでは、イエスが「自分はメシアである」と言えばそれは「ユダヤの王」であると言うのと同じである。ローマの支配下にあったユダヤ人にとっては帝国への反乱と同義になる。だから「ローマへの税金は払うのか」といった質問が出る。で、「カエサルの物はカエサルに、神の物は神に返せ」となり、ローマ人総督ピラトゥスに対して「私の王国はこの世のものではない」と言う。

 こういった「論証(物語解釈?)」は面白いが、「信仰」を論証することは不可能なようだ。「イエスはメシア(神の子)である」ことを告白(心の底から信じると宣言する)するのが信仰だからだ。なぜそれができるかと言えば、イエスが病む者を癒やしたり死者をよみがえらせたりという奇跡を行ったこと、イエス自身が死からよみがえったことが証拠だという。つまりそこに疑義を挟む余地は無い。問答無用に信じることが必要で、そうしない者は(最後の審判で)救われないことになる。

 すべては「神の啓示」に依拠するなら、そもそも論証する対象ではないだろう。

 また、父なる神の子であるイエスの言葉に従わない行動をする者も救われない。ではイエスは人々に何を課したか。それは、イエスを信じることと悔い改めること、山上の垂訓(ゴールデンルール)といくつかの信条?しかない。細かい教義は後世作られたものだ。しかしいずれにせよメシア(王)に黙従することが絶対必要になる。

 

 『キリスト教の合理性』の最後の方になると、「自明性の証明」に苦しんでいるようにしか読めなくなってしまった。さて、最も知りたいことは「ユダヤ教徒や非キリスト教徒に対しても適用される根拠はいかなるものか」だが、当時のユダヤ人でもエフェソス人でもローマ人でも、あるいは16世紀の日本人でも同じように、イエス以前に生き、イエスを知らずに死んだ人間(すなわち自分の父母・先祖)は救われるのか?という疑問を持ったようだ。

 それに対しては、アブラハムやノアもイエス以前の人だが「神」を信じていたことに変わりは無いということであり、またユダヤ以外の国の人でも、「人間の内にあって、人間を人間とし、人間が人間としてその下にある法を教える天与の性質と理解力との閃光が、同じように、人間が、その法を破った場合に、慈悲心に富み、親切で、憐れみ深く、人間とその存在との父にして創造者である神は、どのようにして罪を贖って下さるかを人間に示すのである。」

 うむ、分らない。分らないのは、多神教偶像崇拝の気味が強い自分には、この「唯一神」、一神教の考え方が浸みてこないからだろう。作者にとっては、自然宗教多神教、哲学者の考察などは完全に真理に至ったものではなく、劣っているとみなされる。ただ、東洋思想については、孔子の名は挙げられているが、仏教については何も触れられていないので、かりそめにも仏教徒としては納得できない。

 

 この本を読みながら、出てくる言葉をいちいち調べている内に、世界史の復習をするはめになった。そうして教会の名の下に行われた数々の愚かな殺戮を思い出さざるをえなかった。十字軍、新教・旧教の戦い、魔女裁判、異端審問、新大陸原住民に対する強奪、奴隷化、虐殺…。気が滅入る歴史が、キリスト教の名の下に延々と連なっている。これを思えば、不敬事件における井上哲次郎キリスト教批判も止む無しと思われてくる。さっきBSテレビで映画『猿の惑星』をやっていたが、あの中で猿たちが聖書を真理としている姿は、なんという、愚かしい人間と宗教への批判であったか。

 これらの愚行を考えだし、命令し、実行した者たちは(たとえ教皇、国王であっても)最後の審判で地獄に落とされるのか? 迫害された人々は永遠の命を得るのか? それは神の計らいであって人の知るところでは無いのだろう。

 

 イエスユダヤに於いて劣化していた「律法」の遵守を説いた。モーゼ以来の律法には「殺すなかれ」があったはずだが、ユダヤ民族以外との戦争に於いては関係なかった。ヨシュアはイェリコを残酷に屠った。では世界宗教となったキリスト教はどうか。原始キリスト教徒は他国の支配下にあり、兵士にならなかったから戦争しなかったが、ローマ帝国キリスト教を認め、さらに国教として以来、宗教は権力と結びついた。王が宗教的指導者でもある時代、また領主が領民の宗教を決められる時代、他国、他領地の民を殺すことに躊躇はなかった。ここでは既に「イエスの教えは死んだ」。近代に至って政教分離が進んだが、「敵」を殺す戦争は依然なくならない。

 宗教には戦争をする力はあっても、止める力は無いようだ。

 では宗教は個人の内面の問題(魂の救済)としてしか成立しないのか。内面と義務の間の矛盾はどうなるのか。それは軍人・兵士の内面にどう影響するのかということになってくる。

 一つは「王(神)への絶対服従の精神」が考えられる。山本信次郎はフランス人修道士たちの、規律正しい、目上の者には絶対服従し、禁欲的な日常生活を守る態度に強く共感した。それは明治時代日本人の精神(生き方)の一面に響くものだったのだろう。軍人としての義務を命令に忠実に果たすということだ。

 だが、仏教と儒学に染められた日本人が一神教的な神の存在を告白するために超えなければならない一線はどこにあったのか、あるいはなかったのか。「行い」よりも「信仰」の方が難しい。世界どの民族でも人間として共通する心情から共通の人間的行動が生じているだろうが、唯一神を信じるかどうかは、これは人間としてのスタンダードになるのか。ジョン・ロックの言うように、人類はイエスによって初めて完全な倫理を知らされた。人間が論理的に演繹的に積み重ねても完璧な倫理道徳には至れなかった。ただ啓示として与えられてこそ、人間は理解することができた。というのはまあ、「熟達した師が模範を示してくれたら弟子も分りやすい」というぐらいのことにしか思われない。

 

 「汝の敵を愛せよ」は、軍人にとっては、戦いが終われば敵味方無く死者に敬意を払い弔うという、そういうことしかないのではないか。

 石川明人『キリスト教と戦争』(中公新書)を読むことにしよう。