雑感 2020年9月30日 明日からお勤め

 明日から人並みに毎日出勤することになる。緊張しているのだろう、このところ夜明け前に目が覚める。おかげで血圧も高くなった。

 

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 中公新書の『聖書、コーラン、仏典』(中村圭志)と『民衆暴力』藤野裕子を読んでいる。前者は三大宗教の入門書として、それぞれの原典を解説している。良く整理されていて、初心の入門者にとってはとても分りやすく、重宝する書物である。

 キリスト教についてこのところ少し考えてみたが、原始キリスト教と後世作り上げられる神学や複雑な教会祭儀は別物である。宗教改革が原点回帰であるのも頷ける。現代に於いても各宗派が乱立状態である。それは仏教に於いても同じで、人の生きる上での苦をいかにして脱するかという人生哲学のようなものから、壮大な宗教観の世界へと拡大していく。現代の我々が礼拝するのは先祖の墓であり、祈願するのは釈迦という人間ではなく、阿弥陀様とかの(神格的)仏である。したがって敬虔な仏教徒である(になる)あるいは敬虔なクリスチャンである(になる)ということには、日々の人間修行?以上の作法・礼法を必要としないのではないだろうか。自分を愚昧・汚濁の悪人と観じて慎み、人様を大切にするという他に宗教の存在意義はないのではないか。礼拝の仕方や食事の制限などの違いから生まれる争いが戦争にまで及ぶのはイエス仏陀の望むことではあるまい。…いやイスラム教とかの場合はそうじゃないのかな。ああ、また振り出しに戻るたびに陽が沈んで行く(「落陽」吉田拓郎)。

 

 後者は、江戸時代末期から明治初期の一揆の分析が面白い。世直し一揆の集団暴力が被差別階級の穢多・非人に対して向けられる場合があったのは何故か。自分たち東北の人間にはほとんどなじみのない部落問題。関西では激しいものがあったのだ。

 新政府が唱える「四民平等」の考えは、近・現代人から見れば普遍的真理だと言えるが、当時の農村社会にしてみれば数百年続いた慣習を一変させる一大事件だったのだ。新平民と平民との間に従前通りの差別を認めようとする旧農民と、差別の桎梏を打ち破り新しい平等観念に沿った生き方を積極的に進もうという被差別部落がぶつかったのだ。なかなか興味深い。

 国家の暴力装置が旧武士から警察・軍隊に移る過程で、民衆の中に暴力を行使し得る空白の時期があったという分析である。

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 被差別部落について、農民・商人から非人の身分に落とされるという刑罰もあったと思うが、他に癩病の罹患者が被差別部落に入れられるということもあったらしい。

 この癩病というものは人間にとって古代から恐れられた業病である。イエスは神の力でこの病を癒やしたという。まあ、盲目・聾唖・足萎えをも癒やし、死者さえも蘇らせたイエスならば、当然できたということであろう。

 日本では、聖武天皇の皇后光明子法華寺浴堂で千人の民の汚れを自ら拭う誓いをなさる。千人目に癩病者が来て膿を吸い出してくれと言う。光明皇后は意を決して膿を吸う。すると病者は如来に姿を変えたという有名な話がある。

 カトリックの修道僧、修道尼は光明皇后に劣らず癩患者への献身的な療養・治療活動を行ったことで知られる。もちろんイエスの愛と行いを踏襲しているのだが、神ならぬ身の苦悩は想像に難くない。

 

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 天才マンガ家岡田史子は晩年、キリスト教を信仰したようだ。若い頃の「死んでしまった手首」や「ほんの少しの水」などの作品にある、ある種の絶望感、自己の存在する意味の空虚さ、自分のすべての行為に対する強い否定的感情というようなものが、キリスト教信仰によって救われたのなら、それはやはり宗教というものの持つ力なのだろうと思う。

 

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                          「ほんの少しの水」より

 

 

 

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 米寿の阿部秀而先生から御本をいただいた。『七〇年目の店卸し』という、ご自身の70年に及ぶお芝居との関わりをまとめたものである。このコロナ禍で市平和劇場も一年延期となり、散歩も図書館通いもままならぬ時期を、ご自身の来し方を振り返る機会となさったのである。まだお礼状も差し上げないうちに紹介記事を書いてしまった。

 

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 新聞で源了圓先生の訃報を見る。大学で直接ご指導いただく機会はほとんどなかったと思うが、熊本県ご出身の先生の前で「宮崎滔天の思想形成過程」などという卒論の説明をしたのは、今思っても汗顔の至りである。先生が自分の母と同年齢(100歳)であったことを知る。ご冥福をお祈り申し上げます。