雑感 2020年8月22日

 疫病に負けまいとエールを送るため、昨日は上空にニコちゃんマークが描かれた。自分も含めブルーインパルスと誤解する向きが多かったようだが、エアレーサー某氏の単発レシプロ機によるものであった。物干しにあがって見ようとしたが、何と死角になって見ること叶わず。連れは道路に出て全部見たとのこと。

 今日は夜にエールの花火を打上げるということだったが、気付かぬうちに終わったようだ。いやはやせっかくのエールを受けることが出来ないとは。

 

 昼から「わらび座」の芝居を東ソーアリーナに見に行く。「松浦武四郎」とアイヌとの関わり、その半生を90分ほどで描くミュージカル。県外での公演は今日が初日とのことだった。検温、手指消毒して、さらに客席2列目まではフェイスシールドを着けなければならなかった。なかなかに息苦しく、次第に上から曇ってくるが、舞台の熱演に引き込まれて、そう気にはならなかった。久しぶりに芝居を楽しんだ。舞台はライブに限る。

 芝居を見ながら、松前藩や幕府、開拓使の、ひっくるめて日本人の、アイヌに対する扱いはアメリカ原住民に対するアメリカ人の扱いに似ていると改めて思った。畑作を禁じ、産物の交換はアイヌ勘定でごまかし、男は漁場に連れ去り、女は手籠めにする。オーストラリアにおけるアボリジニーへの政策や、新疆ウイグル自治区で行われているという民族絶滅のやり方にも似ている。

 アイヌの「反乱」もネイティブアメリカンの反乱も武力で弾圧された。映画『ダンス・ウイズ・ウルブス』に見る原住民の素朴さ・自然と調和した生き方と対照的な米国騎兵隊の粗雑・野蛮さが、舞台のアイヌと和人の関係に重なって見えてくる。

 大化の改新後の阿倍比羅夫による北方遠征、平安時代初期の坂上田村麻呂による蝦夷征討から後期の源氏による奥州十二年合戦まで、東北地方でも大和朝廷と、それにまつろわぬ蝦夷(えみし)との争いが続いた。そして奥州清原氏安倍氏双方の血を引く清衡が開いた奥州藤原氏源頼朝が武力で滅ぼした時、本州での北方勢力は潰えた。

 ひいてはスペイン・ポルトガルカトリック教国の世界征服、オランダ・イギリス・フランスの植民地経営なども、文明「先進国」民族が未開・野蛮の民族を支配下に置くという構図で、みな共通しているように思われる。昨今、欧米で大航海時代の先駆者・発見者の像が倒される映像が流れてきていた。世界史はこれまでのヨーロッパ中心からより無中心で公平な方へシフトして行くのか。もしそうならその時日本の立ち位置はどうなるのだろうか。

 

 岩倉使節団が直面した「世界」は、文明開化の先進国がすべてキリスト教国であり、中でも英米などプロテスタント教国が最も優勢であるという状況だった。西洋近代文明、科学技術、文化、教育の背後にはキリスト教という堅固な基盤があるのだった。日本がそれらの国々と互していく上で、国の宗教を如何にするかがどれほど重大な問題であるか、彼等は気付かされていく。「中体西用」、「和魂洋才」というだけではすまされない。唯一絶対の神という概念を持たない日本人にとってその部分を克服するのは非常に困難なことだったろう(今でもそうではないかな?)。

 

 ジョン・ロックは書く。イエスが総督ピラトに対して「神の王国」を説明したとき、「それは、異邦人の為政者である総督にとってはきわめて縁遠く、また理解することもできない方法でなされたので、もしそれが彼に不利なものと申し立てられたとしても、それは、統治権力に対して反抗を企てている野心的な、あるいは危険な男の考えだしたことというよりも、気が狂った人間の夢想と思われたことであろう。」

 自分は神の子で、死んで蘇ると言って、その通りに神となったということを信じよ、最後の審判の前に悔い改めよ。「主よ主よ」と言えば良いのではなく、神(父)の意思を行う者が天の王国に入る。神の意思に服さない者は「私はお前らをまったく知らぬ。私から離れ去れ、不法を働く者どもよ。」と告げるだろう。…と言われてもねぇ。

 ユダヤ教キリスト教イスラム教の人々はアブラハムの子孫かも知れないが、日本人はアブラハムとは関係ないだろう。したがって神との契約も無いだろう。いや原罪すら無いのではないか。日本では原罪は性悪説の一種かと見なされる。日本人の多くは性善説で、先祖崇拝が強く(この「孝」という徳がキリスト教には薄い)、八百万の神にシンパシーを抱くのではないか。

 内村鑑三は如何にしてキリスト信徒となったか。札幌農学校で一年上の先輩たちから日々強引な説得を受けて信徒となったのであり、何か回心というような内面のきっかけがあったわけではない。アメリカに渡っても、そのキリスト教国での人種差別、不道徳に幻滅する。皆が皆敬虔な信徒では無いことを改めて見せつけられたのだ(考えてみればそれが当然なのだが)。それでも彼はキリスト教を棄てず、聖書を研究し続けた。

 

 「仏教は宗教か」という文句で検索したら上祐史浩アーレフ)の動画が出てきた。仏教を研究した西洋人は、「これは宗教ではなく人生哲学である」と言った。「信じる」ことから始まっていないのだ。釈迦自身が自分を神格化するなと言ったくらいだ。ただ、後世、仏教も変化し、観世音菩薩・薬師如来阿弥陀如来の「絶対仏」が考え出された。阿弥陀信仰などは「南無阿弥陀仏」と唱えれば極楽浄土へ行けるというのでキリスト教に近い。それで「阿弥陀キリスト教」などと言われる。というような内容で、これはこれで理解しやすい話だった。上祐さん久しぶりに見た。年取ったなぁ。