暑いので諸事停滞している

 暑いし、お盆でダラダラ暮らしたので更新していなかった。原爆や終戦の記念日もなんとなく過ぎた。まあ、百歳の義理の伯母に昔の事を聞いたのと、従兄弟の家から母の子供の頃の、お稚児さん姿(鳥海月山両所の宮の祭礼)の写真がもらえたのが収穫か。祭礼の行列で人力車に乗って廻るのは、当時も町内のお金持ちの子にだけ出来ることだった。この写真は、生前母自身が気に入っていたものだが、今手元に見当たらなくなっていたので、もらえて良かった。

 

 終戦の日靖国神社参拝について毎年報道があるわけだが、ふと、山本信次郎や堀三也などカトリック信者の軍人は祀られているのかと考えた。これは「神道」が「宗教」と言えるかどうかという問題にも関わってくる。

 

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 まだ読み終わっていない『岩倉使節団における宗教問題』(山崎渾子2006)だが、実に面白い。明治初年に起きた浦上四番崩れについて、フランスは当然ながら欧米がそろって問題にし、岩倉具視たちが条約改正から宗教問題をはずそうとしていた目論見に反して、信教の自由という大問題が立ちはだかった。新政府が批判を受けた、浦上の信者を各藩に流配した措置を、「旧幕府に比べれば穏当なものであるし、居留地外に限った布教の禁止である。ロシアでも居留地外での他宗の布教は禁じられている。」と弁解したのに対し、内心の自由を保障されないのでは条約も改正できないと言われてしまう。

 明治4年に出発した使節団はまずアメリカに渡る。大雪でソルトレイクに2週間滞在した時、モルモン教の現状を見聞している。彼等のとる一夫多妻制を国は禁じることが出来ないはずだが、教祖の域外布教が禁じられるなど信教の自由にも限界があるという理解だ(モルモン教はこの後明治30年頃、一夫多妻制を放棄する)。

 

 岩倉たちが宗教問題をはずしたのは、「皇室と神道による祭政一致の体制」を目指していたからだ。そして、250年以上続いた「鎖国」の最も重要な部分である「禁教」を維持しようとしたのだ。人民は氏子として神社に登録し、葬儀などは仏式を続けるというような考えだったようだ。

 彼等のキリスト教観は、農民をたぶらかし、反体制を組織化し、国を危うくするというものだった。これは16世紀末には西日本で実際に起きたことであり、ヨーロッパから見た「新世界」(清国までも含む)において、宣教と共に行われた虐殺と奴隷化の事実を根拠にしており、それは新政府にとっても依然として脅威に思われていたのである。

 ただ、19世紀までには欧米諸国でも幾多の興亡、変革を経て、また新聞というジャーナリズムも発達し、自由な議論がなされるようになっていて、日本側の主張、懸念に同意するような意見記事も掲載された。宗教が侵略の手先になるような時代も、カトリックからプロテスタントに移行する中で変わってきたようでもある。

 使節団や留学生(女性含む)の中からもキリスト教理解者が出てきて、使節団内部でも宗教論争が起きるという状況だったようだ。この、日本の中でのキリスト教に対する二つに分裂した流れ(禁教ないし警戒かあるいは受容か)は尾を引き、日本人の心底に残り、明治20年代の教育勅語不敬事件においても噴出したということなのだろう。井上哲次郎らの批判は岩倉具視らの懸念を引き継いでいるように見える。

 さらに言えば、世界宗教であるキリスト教神道が対峙し得ないという懸念でもあっただろう。祭政一致でも、神道という、一地域古来の神話に拠る信仰を立て、タイやビルマ(もちろんミャンマーです)のように、(世界宗教である)仏教立国にはできなかった。完全な神仏分離が不可能だったように、国家神道という不確かな教義では対抗できなかった。また、キリスト教のみならず「個人の内心の自由」という近代思想の前には古代神話に根拠を置くような思想で国民の内心を縛ることなどできないのは当然だった。使節団にも、そのことは次第に理解されていっただろう。