雑感 2020年8月29日

 演劇鑑賞会例会、俳優座『八月に乾杯!』観劇。山形中央公民館。ウイズコロナで、検温・消毒・マスク・市松模様の座席指定。前数列の座席が外してある。

 岩崎加根子と小笠原良知というご高齢の俳優による二人芝居。設定では60歳くらいだが、お二人とも80歳代である。ソ連の劇作家アレクセイ・ニコラエヴィッチ・アルブーゾフの作品で1968年のラトビア共和国リガの保養所を舞台にしている。老境の男女の触れ合いをきれいに描いて好感が持てた。この舞台が東北巡回の千穐楽だったそうだ。少しずつ舞台が復活しているのが嬉しい。

 舞台にマイクが置いてあるが、ほぼ地声で通った。先日のわらび座ミュージカル『松浦武四郎』では全員ピンマイク装着で(歌うから仕方ないのだろうが)台詞がほとんどスピーカーから聞こえたのとは違い、舞台上の役者から発しているとはっきり感じられるのが良かった。回り舞台を使っての転換はおもしろいが必ずしも必要ではないかもしれない。衣装替えの時間が必要なのでそうしたのかもしれない。客席から携帯の着信音が二度ほど響いたのが残念。

 

 四月から無職年金生活者であるが、来月からパートで仕事が入りそうである。堀三也探索も一段落したところなので潮時かも知れない。いずれにせよ、生活の中で収入があるというのは良いことである。しかしがんばって働くと翌年の税金(国民健康保険!)が跳ね上がり、「なんていう仕打ちだ!」などと思ってしまうので素直に喜べない面もある。

 

 図書館に返却に行って、知り合いと遭遇。いろいろ話すうちに、今自分が調べていることの動機になっている、「ある妄想」について語ってしまう。その妄想は考証癖によって肥大している。ある種、陰謀論かもしれないが、事実の関連が偶然以上のつながりとしてあらわれることに驚くのである。戦前のことなのでもう実証は困難であろうが、出来得る限り「真実」に近づきたいという気持ちが強い。その内ここに詳しく書ける時も来るでしょう。

 

 キリスト教。2000年の間に変化し堕落し、度々改革が行われて来た。(免罪符〈贖宥状〉で金稼ぎをする宗教家を批判する等々)つまりは原点イエスに帰るということだ。内村鑑三は「無教会」である。イエスは教会を持たなかったではないか。内村の訪れたキリスト教アメリカの中にも差別や腐敗、犯罪があったし、一方には敬虔な信者もいた。農学校の先輩たちの強制によって入信した内村も、異国での苦労の中で思索し続け、次第に「神」への理解を深めていく。その先に真の回心が訪れるわけだが、この一連の経過を英文で出版した意義は非常に大きい。さらにドイツ語に訳されて世界の識者が評価した。西洋の先祖代々のキリスト教徒は自分たちが疑いも無く浸っていることに対して、異教徒の側から客観的にキリスト教信仰を叙述されて初めて気付くことも多かったろう。ジョン・ロックが乗り越えられなかった壁を、かえって最も僻遠の地の異教徒が越えて見せた、とさえ言えるのではないか。

 しかしイエスは自らが言ったように「躓き」でもある。イエスは神であるか人の子であるか。唯一絶対の神は名辞としても認識できない。祈願の対象ですらない。祈り(希望)を叶える者ではなく、祈りも答えもすでに神の中にある。イエスやマリアを信仰するという時、その先にある(人格的にとらえられない)「神」という絶対的存在に近づけなくなるのではないかということだ。多くの人が神に祈るのは「現世利益」を求める(所願成就、成績が上がりますように! 良い人に巡り会えますように!)のであろうが、本当の神はその次元を越えているということが見えなくなる。日本人が持たなかった一神教の神髄はそこにあるのだろうが、西洋の人々にも同じようなことが言えるのだろう。

 浄土宗の「他力本願」、親鸞の「絶対他力」がキリスト教に近いと言われるのはそこであろう。「神の愛」は「阿弥陀如来の慈悲」に近い。(また無知を晒すことになるので、あらためて仏教の勉強をしなければ。うちの宗旨は浄土真宗なんだけど。)