『西沢定吉翁』を読んでみた

 つい最近まで「西沢定吉」という政治家を知らなかった。総理大臣などの名は覚えるが、昭和以前の地方政治家などについては、学校では何も教えてくれないので知る機会が無い。自分が選挙権を持って以降の政治家なら知っているが、その3~4代以前となると分らない。郷土史の教育はもう少しやってもいいのではないか。身近すぎて差し障りがあったりするのだろうか。二世議員などと言われるが、結構昔からあるし、中央の政党の争いが地方にも波及する。

 『西沢定吉翁』(昭和33年、菅野白雨・後藤嘉一)を読んでみた。没後十数年、戦争中で十分な顕彰ができなかったので、この機に舞鶴山に顕彰碑を建てることになった。松浦東介などが中心になった。

 西沢定吉明治4年11月4日~昭和16年9月24日)は西村山郡大谷村の出身で、鈴木清助の次男だが、20歳で天童の西沢忠右エ門の長女と結婚し養嗣子となった。政治に志し、天童町議、山形県議、衆議院議員、天童町長の経歴を持つ。政友会ではあるが「政界の惑星」と言われたように政党に縛られない人物だったようだ。

 

 大正14年7月末の貴族院議員改選後(激戦の末、政友会の工藤八之助が当選)、仙山線の南北(東回り・北回り)争いが政党絡みで紛糾した。西沢は、政党・政派を超越し少壮の知識層(山形市の中堅的人物)によって新しい政治理念をもって地方発展に尽力すべしと痛感し、その構想を山形市の弁護士大内有恒に話した。大内は市井の一少壮弁護士で政治に対し深い関心も持たなかったが、西沢の提唱に全面的に賛同し、同志を糾合して「一声会」を結成した。

 

 以上、大内有恒(当時35歳。東京帝大卒業後、山形地方裁判所所属弁護士会に入って8年)についての記述だが、別の資料では大正14年6月に山形市第二級議員に当選、副議長に選任されたとあるので、上記の「一声会」結成の時点では、すでに地方政界にデビューしていることになるので事の経過がやや不審である。前後関係はともかく、大内の政界入りに西沢定吉が強く関わったことは確かなのだろう。

 

 西沢の生家鈴木家からは県内の旧名主(豪農)や大きな商家との婚姻関係が多い。これは当時一般的なことであり、「分相応の相手を選ぶ」ということで、互いに親戚となることで一種の富裕階級層ネットワークが形成されていたとも言える。

 自分の母方の大叔母が大正7年(1918)に千手堂の大内玄濯という人の弟に嫁いでいるのだが、この大内玄濯という名は、天保元年(1830)の文書に千手堂村名主として出てくる。当時から苗字を名乗っているので、それなりの家柄があるのかも知れない。(野口一雄先生の指摘で医者であったことが分かった)明治43年大正6年に出羽村村会議員になっているが、天保時代から数えれば大叔母が結婚したころには二代くらい代替わりしているはずだ。

 一方、母方の曾祖父は天童市寺津の大木勘十郎(三代)の長女と結婚し4人の子をもうけた(その一人が上記の大内氏に嫁いだ人)が、その人は28歳で歿。曾祖父は後妻として同じ大木家の二女(最初の妻の妹)と結婚し、7人の子をもうけた。寺津の大木家は幕末以降名主や戸主をつとめ、二代目は寺津村と船町村との訴訟が知られている。三代目は製糸工場を営み、明治半ばには大経営者だったがその後不振となり、養蚕業に転じた。四代目善太郎は和算の研究家として有名である。(大木家については山形大学附属博物館の古文書史料目録第34号に拠った)

 自分の母方の家もそれなりに名主層との血縁関係を持っていたことがわかる。

 

〈追記〉

 9月1日(火)に天童市立図書館の歴史相談室で大木勘十郎の孫である大木彬先生と野口一雄先生にお会いし、詳しいお話をいろいろとお聞きできました。大木先生の作成された系図と一致し、嫁いだお三方の没年が判明し、喜んでいただきました。