雲外佐々木喆山和尚 寶藏寺23世住職について

 阿部記念館でお話をうかがった佐々木さんから佐々木喆山(てつざん)についての資料を送っていただいたので、先に書いたものの誤りを訂正し補記したい。インタビューを録音しなかったこともあり、記憶が曖昧であった。

  いただいた資料にしたがって年譜のように書いてみたが、未詳部分が多い。鶴岡南高

校同窓会に問い合わせると分る部分があるだろう

 〈追記〉

 荘内中学と酒田中学(大正9年~)の後身、鶴岡南高校と酒田東高校に問い合わせた

 が、「佐々木喆夫」「我孫子喆夫」いずれも同窓会名簿に記載が無いそうである。

 それでどの資料にも中学名が書いてないのだろう。はたして彼の通った中学はどこな

 のか? (念のため山形中学の名簿も見てみたが、無かった。)

 

 なお、喆山の養父赫堂(かくどう)は佐々木さんの大叔父に当たるとのこと。

 

                   f:id:hibino-bonpei:20200731094658j:plain

 

明治33年(1900)3月23日、山形県東田川郡山添村西荒屋の寺に生まれる。

  幼名、我孫子喆夫(あびこてつお)。

明治41年(1908)、8歳の時、父の修行した飽海郡上郷村山寺の寶藏寺に上った。

  佐々木藤左衛門の口利きで、分家の弥太右衛門から出た22世赫堂(かくどう)和尚

  の養子になった(佐々木さんの記憶では養子になったのは大学に入るとき)。

  「トテ馬車に乗せるから一緒にあべ…(「トテ馬車」は乗合馬車、「あべ」は方言で「行こ

  う」の意)」と言われて(だまされて)一人連れてこられたのだという。

  喆山の兄弟は9人で、下の2人以外は皆養子に出た。

  同年、山寺小学校入学。年齢が上のため体格が良く弁口もたったのでガキ大将にな

  り、その一の子分が阿部襄(のぼる、一郎の長男)だった。檀家からは「てつおち

  ゃ」と呼ばれていた。阿部家(現阿部記念館)の数軒隣が小学校で、その上が寶藏

  寺である。

大正2年(1913)、13歳、山寺尋常小学校卒業。

? 中学校入学、阿部わかのの援助があったと。

? 中学3年の時、柔道の寒稽古で肋膜炎となり入院。休学。退院後、阿部余四男

  (当時二高教授)宅で起居を共にする。翌春4月原級復帰。

? 中学校卒業  

大正13年(1924)、曹洞宗大学(旧栴檀学校、栴檀林。翌年駒澤大学に改称)入学。

  寺からの学資援助は無く、阿部家の書生として原稿清書などで糊口をしのいだと。

昭和3年(1928)、28歳、駒澤大学文学部東洋学科卒業。 駒澤大学教務課勤務。

昭和4年(1929)、29歳、東京都牛込高等女学校教諭

昭和15年(1940)、40歳、昭和通商株式会社(前年4月設立)入社

昭和17年(1942)、42歳、陸軍兵器行政本部嘱託

昭和18年(1943)、43歳、従軍僧の養成をしていて、派遣した従軍僧の視察に、仏領印

  度支那ベトナム)・泰国(タイ)・ビルマミャンマー)に行く。

  戦局の非を感じ帰国。その際、ビルマの高僧タンマュリア僧正から「平和のため

  に役立てて欲しい」と仏舎利を託された。この仏舎利は、戦後に箱根芦ノ湖畔の仏

  舎利塔に安置された(場所不明)。

  帰国後、東田川郡斎村我老林の寶台院に引き揚げ、ここに和光幼稚園を開設した。

昭和24年(1949)、49歳、山形県立山添高等学校勤務。

昭和26年(1951)、51歳、東田川郡斎(いつき)村村長当選。

昭和30年(1955)、55歳、斎村・鶴岡市合併、以後鶴岡市行政専門委員就任。

昭和31年(1956)、56歳、依願退職。22世壽山赫堂大和尚の遷化により寶藏寺23世住

  職となる。

昭和34年(1959)9月1日、59歳、阿部一郎の通夜で山形市に。同夜、堀三也が喆山の

  眼前で死す(71歳)。

昭和60年(1985)、85歳、退董(隠居)。

昭和61年(1986)、86歳、12月12日遷化。平成23年発行の耕雲佐々木喆彦(喆山の

  実子)の『つばきね』第4集に「91歳で遷化」とあるが、不審。昭和52年発行の 

  『現代山形の百人』に喆山自身の自己紹介文(座右の銘「Slowly but steadily.」)

  と略歴があるが、「生年月日、明治三十三年三月二十三日」とある。

 

 

              f:id:hibino-bonpei:20200731094855j:plain


    画像は2枚とも「青少年の座右の銘『現代山形の百人』育英出版社 昭和52年5月発行」より。

    佐々木さんからいただいたコピーである。