堀 九重と母

 新関岳雄氏の『影と声』では、堀三也の妻九重について、初め次郎の婚約者と決められたのが(明治35年、次郎19歳、九重14歳)、三年後に婚約破棄となったことをあげて次郎と三也の間にわだかまりがあっただろうということを書いている。

 そもそも九重との婚約が、次郎の日記によれば「母ヨリ堀ノ叔父ヨリ来リシ手紙ヲ示サル。余ノ学資ノ半ヲ叔父ヨリ支出シ九重ト共ニ一家ヲナサシメテ竹岡氏ヲ嗣ガシメタシトノ文意ニテ、余ノ意見ヲ質サル。」というのが発端であり、その叔父(堀礼治)の手紙は「…次郎どのを後相続人と定め愚女九重を嫁はせ一家を形成せしめ今後次郎どのの学資は半分つつ支出候様に致し度存じ御高見如何に候や御伺申上候…」というものだったから学費のための結婚のような意味合いがあった。

 

 阿部家と堀家の関係は、堀礼治が阿部ゆき実弟であることにある。二人は竹岡家の姉弟である。ちなみに長姉わかのが阿部七郎右衛門の後妻となり、次姉あいが医者の堀家に嫁し、四番目の姉ゆきが阿部富太郎(七郎右衛門の甥、次郎・三也の父)に嫁している。あいには子が無く、弟(三男)の礼治を養子にしたのである。礼治は明治22年豊田ゑいと結婚した。ゑいは二歳年上で、病没した先夫との間に子がいた。この子が明治21年生まれの九重であろう。そういう事情からか、ゑいと礼治の結婚には、豊田家が礼治の学費を負担するという条件があった(礼治は明治22年東京大学医学部を卒業しているようで、とすれば学費云々は時期的にずれるような気がするが)。二人は結婚したものの、この学費が途中切られるということもあったりして、礼治は明治27年北海道に行った機会にその地で医院を開き、帰ってこなくなった。本当は離縁したかったのだろうが、竹岡家は皆カトリック信者であり、離婚が禁じられていたのだ。(でも別に女性がいて、三人の子があったという。)

 ゑいの姑の堀あいは明治31年(1898)43歳で亡くなった。舅の謙益がいつ亡くなったのかは今、分からないが、多分この機会に(未確認)ゑいは実家の豊田家に帰り、そこの屋敷の一角をもらって住んだ(実家の筋向かいで三百坪の敷地だったという)山形市八日町の豊田伝右衛門家は大きな薬屋であり、ゑいは伝右衛門の次女だった。娘の九重も(たぶん妹の千代子も)ここに一緒に住んだ。ちょうど明治31年に富太郎夫婦が山形市に移った際、ここにやっかいになったようだ。

 

 こういうわけで、九重は次郎にとって母方の従姉妹になる。

 

 明治2年(1869)わかのゆきの母竹岡きよの(36歳)が、4年(1871)に父竹岡周禎(44歳)が亡くなり、31年(1898)には次男の滋松が38歳で東京で亡くなる。こうして竹岡家は継ぐものがいなくなったが、後に富太郎の五男勝也が竹岡家の跡を継いだ。

 

 父親不在の九重とゑいを心配したわかのゆきは、次郎に期待するところがあったのだ。

 

 しかし、山形中学に通う次郎の日記には、中学の近所に住む陸軍少佐の娘で、山形高等女学校に通う美女に恋い焦がれる心が書かれる。この人加藤さんは、たぶん次郎が校長排斥運動をした年(明治33年)に入学し、4年後の明治37年に卒業している。文字通りの才色兼備、気品に満ちた方だったという。同窓生の間では、美人に対しては「加藤さんのような」という形容をつけるほどだったという。次郎は東京の第一高等学校に進んでからも帰省するたびに彼女を町で見つけては胸をときめかせている。そんな心のままに、九重との婚約が進んでいたのだ。心中、二人を比較しながら結婚相手として夢想する次郎…。だが加藤さんは卒業してすぐに陸軍少尉の妻となる。

 一方の九重は、母の代から山形の町中のお嬢さんである。5歳上の次郎からは勉強を見てもらいながらも、たぶん結婚相手としては考えられなかった。

 九重も次郎との婚約成立後山形高女に入学している。一年間、加藤さんと同じ学校で過ごしたわけである。加藤さんに対する男子学生たち(もちろん阿部次郎も)の抱く、彼女への憧れを十分感じていたに違いない。比較されればとてもかなわない、そもそもそんな比較をする婚約相手に乙女の心は複雑だったろう。

 その点同い年の(4ヶ月差)三也は外向的で優しく、心安かったのだろう。そんなこんなのすれちがいで、次郎はずいぶん嫉妬し、また傷ついたことだろう。結局は婚約破棄に至ってしまう。

 

 三也と九重はほんとうに優しさに満ちた家庭を築いただろう。カトリックの信仰に導かれ、娘たちは大阪の修道院を目指した。自分の母フサヱが奉公していた頃は、娘さんたちは修道院にいて会ってはいないのだろうが、九重さんは自分の母にとって、同郷の同じようなお嬢さん育ちであり、夢見ていたが叶わなかった女学生であったし、17歳で死別した母サタと近い年齢の、いろいろな意味で慕わしい人だっただろう。そんな人のもとにいられた時期は母の人生でも幸せな時代だったのではないかと思われる。