堀九重と加藤幸の卒業写真

 山形西高等学校に行き、同窓会事務局担当の方の許しを得て、嚶鳴会館およびアカシア会館にある資料を見させていただいた。かつての職場なので、まだ無理をお願いできる部分がある。感謝。

 

 山形女子師範学校・山形(第一)高等女学校・山形西高等学校の卒業生でつくる「嚶鳴同窓会」の、現在見られる最も古い名簿(昭和34年版)によれば、堀九重(名簿では「九重」の間に「々」の字が鉛筆書きされている)は明治40年(1907)に高等女学校を卒業した。住所は残念なことに空欄である。九重は名簿発刊前年の昭和33年(1958)5月に病没しているのだが、名簿にはその旨の記載も無いので、それ以前から同窓会には消息不明になっていたことが分かる。

 

 一方、次郎が密かに恋い慕った加藤幸(名簿は「こう」、鉛筆書きで「幸」、新関岳雄氏の著書中では「幸子」と呼ばれている)は明治37年(1904)に高等女学校を卒業している。したがって、九重が一年生の時、加藤幸は四年生である。一年間を同じ学校で先輩後輩として過ごしているのである。

 卒業写真を見ると、残念なことに集合写真に名前が付されていないので誰が誰か分からない。かろうじて新関氏の著作中、「その卒業記念の学芸会で幸子は仲間といっしょに琴を弾いたが、妊娠の身であることは同級生にもはっきりわかった。そしてその時の卒業写真を見ると、彼女は第二列目に人に隠れるようにして立ち、確かに袖で前を見せまいとしている感じである。」という記述から判断できる。おそらく新関氏は取材当時(昭和40年代初め)に存命だった同級生の方々から教えてもらったのだろう。集合写真でその顔貌は詳細には分からないが、田舎の女学生とは明らかに違うようだ。

 

 九重の卒業写真では全くどれが誰なのか分からない。卒業写真はアルバムのように毎年の写真が綴じてあり、希に名前を書いた紙が挟んである年もあるのだが、そういう同級生たちの手による記録がなされないものは資料的価値が乏しく、ただ時代の雰囲気を表すものとしてしか残らないだろう。(これは自分の母校でも同じで、旧校舎の会議室の前の廊下に歴代の卒業写真が三段くらいに並べて掛けてあったが、もうどれが誰とも知れない。今は同窓会事務室にあるのか、どこかに掲示してあるのか。自分は校舎改築の際、教諭として在任していたはずだが今記憶に無い。)

 

 加藤儀蔵は、九重の父礼治の姉ゆきと富太郎夫婦の長女である、ますの夫になる人だが、彼は明治35年4月から明治44年6月まで高等女学校の教諭をしていた。九重の母ゑいが実家豊田家からもらった八日町の屋敷の土蔵を借りていたらしい。次郎もそこに出入りしていたようだ。九重にとってこの人は年の離れた義理の従兄妹ということになるだろうか(三也と結婚したら義理の兄になる。この親族の養子姻戚関係は非常に分かりにくい)。おそらく九重は在学中に彼の授業も受けたことだろうし、卒業写真にも一緒に写っているのだろう(もちろん加藤儀蔵もどの人か分からない)。

 先日酒田の阿部記念館を訪れた際にいただいた資料では、ますの夫加藤儀蔵は「小学校教諭」と書いてあるが、誤りだろう。

 

 ここまで来て、あとはどうしたら堀三也と九重の家族に行き着けるのか。二人の子どもたちで三女・次男・三男の方は自分の母と同年代か少し下と思われるので、なおご存命であれば、何とかお目にかかるなりして、終戦前数年間の自分の母についての記憶がないか伺いたいのだが、今はほぼ手掛かりが無く、はなはだ意気喪失の感がある。