『大沼保吉翁回顧録』

 『大沼保吉回顧録(1963後藤嘉一編著)は、壽虎屋酒造の八代目主人で、戦前四期に渡って山形市長をつとめ、昭和37年(1962)に亡くなった大沼保吉氏の、89年にわたる人生の回顧録である。

 この本は、昭和19年から21年という時期に市長となった大内有恒氏について、どういう事情から市長になったか知りたかったので読んだのだが、明治時代の地方商人立志伝としても、また山形市の近代の歴史叙述としても、実に面白い。大内有恒は東京帝大卒の弁護士で、名を上げていたが、市議会における政友会と憲政会の争いの余波として新進の議員を出そうということで出馬を勧められ当選。「一声会」という若手の団体を作った。その後四選し、名誉職参事会員、市議会議長などを歴任、大沼市長と共に市政運営に働いていた。昭和19年、四期目を終えようという72歳の大沼市長は、同年2月、鈴川地区の戦死者市民葬に参列した際、凍った道で転倒し、立てなくなった。そのまま二ヶ月療養の身となった(当時、山形市から出征して戦死した人の家には、必ず市長自ら弔問していたのだ)。そんなこともあり、旧知の大内有恒に市長を依頼することになる。当時の「市長」は官撰となり、推選によって内務省で決める奏任官になっていた。大内は市長となれば弁護士をやめないといけなくなるが、そうすると収入が十分の一に減るという。そこで市では県知事の給料を上回る、年一万円の待遇を用意した。こうして大沼市長任期切れの12月16日、大内は市長となるが、その任は戦時にあっては市産業をいかにするか、疎開児童をどうするか、終戦後はその処理、進駐米軍との折衝と実に激務だった。戦後、昭和21年に公職追放令が出され、大内は11月22日を以て依願退職する。なんと損な役回りだったか。昭和29年3月病没、享年64歳。二男の恒夫氏は最高裁判事をつとめた。この恒夫氏の妻は、出羽村長だった大内清三郎の娘さんである。

 

 昭和19年の2月23日夜、山形市では香澄町横町南の山形女子師範学校・山形第一高等女学校校舎がほぼ全焼するということがあった。空襲の予想される中の灯火管制下、国及び県の財産である歴史ある校舎を失火で失うのは大問題だったろう。また、山形市は過去何度も大火に襲われた経験があり、市民は皆火事を恐れていた。延焼すれば大変なことになっていただろうが、学校以外類焼せず、死者負傷者も無かったのは不幸中の幸いだった。ちょうどその時期、大沼保吉市長は怪我で寝込んでいたのだ。やがてその火事は女子師範学校生徒の放火だったということになり、その生徒の裁判では大内有恒が弁護人となった。裁判は同年10月9日に結審し、有罪、心神耗弱者として8年の禁固となった。その弁護の終わった頃、次期市長の件が本格化したことになる。

 

 この本では戦前の商人の気質、商家のあり方などが良く分かる。酒や鋳物など製造と販売を行う商店は古くからあり、店々は盛衰を繰り返している。その中で子孫に商売を継がせ、店を発展させることに全精力を注ぐが、一人前になるには必ず他商家の飯を食わなければならない。そこで修行してこそ一人立ちできるのだ。跡取り息子がいなければ親戚から婿を取り、次男以下は他家へ養子に出る。そこで複雑な姻戚関係になるが、これは阿部次郎の家と同じで、当時は一般的なことだったのだ。

 先に述べた市の大火で、家屋敷が焼失する目にもあっているが、必ず再興するという気概が素晴らしい。焼け残った酒を売り切ると「酒札」を売る。これは今の商品券と同じ物であるが、火事の見舞いや何かで酒の需要が急上昇した。火事見舞いには一斗樽を持参するよりも手軽で良いということでたいそう売れたのだ。この現金を資本にして酒を増産し、注文に間に合わなかったり、酒が足りなければ他の酒造家から買ってでも客に渡す。この売り手と客の間の信頼が大事なのだ。

 

 商人の人脈も大事だが、少年期から勉強意欲が強く、学校に行きたくてしょうがなかった。貧しい中、働きながら苦学する人はたくさんいた。学費がなければ進んで先生の書生となり勉強する。そうやって身を立てた人の強さは実にうらやましいものだ。

 今は自分の半生を振り返って、あまりに不勉強、生半可な世間知らずであることに恥じ入る毎日である。