円応寺の旧堤防を歩く その1

 山形市銅町はたびたび馬見ヶ崎(まみがさき)川の洪水被害に遭った。文政七年申(1824)の大洪水後、東側に堤防が築かれた。正確な築造時期を知らないが、堤防は明治の初めには既にあったから、おおざっぱに「幕末」と言っていいだろう。このおかげで明治二十三年(1890)の県庁以北大洪水の被害は避けられたようだ。

 当時の県庁舎(現文翔館)付近は江戸時代までは馬見ヶ崎川の河道で「万日(まんにち)河原」と呼ばれた場所だったので、容易に洪水の流路となったのだろう。母が伝え聞いた古老の話では、旧県庁舎工事の際には大きな川原石がゴロゴロ出てきたという。17世紀の初めころ鳥居氏が大工事を行って河道を北向きに変えたのだ。

 明治二十三年大洪水の後、今の双月橋あたりから馬見ヶ崎橋まで、1,500間(3㎞)と2,000間(4㎞)程に渡る二重の堤防が築かれた。

 下の地図中央の「山形中學校」は戦後山形第一高等学校さらに山形東高等学校になった。右下の「山形師範學校」は戦後山形大学教育学部さらに山形北高等学校になった。そのすぐ裏に土手と河原があったのだ。

   

 

 しかしその後も、大正二年(1913)には師範学校山形大学教育学部、現山形北高校)裏側の堤防が決壊し、やはり県庁前、市北が洪水に見舞われた。市は根本的な治水を決意し、二重の堤防の間の幅44間(80m)長さ999間(1,800mほど)を、100間の川床を浚渫した土砂で埋め立て、広い土地を造成した。さしもの暴れ川も大正五年(1916)までの浚渫と堤防間埋め立て工事の結果大人しくなった。新しい土地にはNHK放送局や住宅が作られた。ここを「埋立(うめたて)」と呼んだが、今は「緑町(みどりちょう)」になっていて、その地名を知らない人も多くなっているようだ。

 下の地図には「埋立地」と書いてある。「放送局」はNHK山形放送局である。まだ双月(そうつき)橋はなかった。山形五堰の取水口はこの地図の少し川上(東)である。

 

                       昭和24年の山形市(塔文社レトロマップシリーズ3)

 

 下の地図では馬見ヶ崎橋西詰に「埋立町」とあるが大半は「緑町」になっている。

                       昭和38年の山形市(塔文社レトロマップシリーズ3)

 

 銅町の堤防は、住宅難(特に戦後)もあって、戦後昭和三十年代半ばには撤去され、東側の桑畑に住宅地が広がった。土手の跡は道路になり、往時の堤防の位置(曲線)がそのままわかる。

 たぶん同時期に、銅町の東南側にあった円応寺(えんのうじ)町の堤防も撤去されるはずだった。しかし当時は住まいの無い引き揚げ者たちが堤防の斜面に仮設の家を建てて住んでいて、中には撤去に反対する人もいたため(家が無くなるから)、そのまま残って現在に至る(堤防は県有地)という事情を地元の人から聞いた。

 下の地図、二口(ふたくち)橋西岸の採石場から銅町新道に分かれるあたりまで、円応寺(圓應寺)町の東側を覆う堤防の標記がある。銅町東にも同様の標記がある。

                       昭和24年の山形市(塔文社レトロマップシリーズ3)

 今も円応寺の堤防の上は道になっていて、両側に家があり出入口があって一見平地のようだが、その下は斜面であって、道沿いがちょうど二階の床の高さになっていることが分かる。河原に面した堤防は高いが、この内側の堤防の土手の高さは2~3mくらいで、ちょうど一階部分の高さになる。それは銅町も同じくらいだったろう。

 この堤防の東側(円応寺川原)は戦前は桑畑で、屠殺場があり、水路に血が流れてくるというような噂もあったようで、あまり住むのに好ましい土地とはされていなかった。そのせいもあってか二口橋の西詰にはゴミ焼却場もあり、高い煙突から煙が上っているのが自分の中学生頃にはまだ見えた。(YouTube山形市広報映画で焼却場内部の映像を見ることができる)

 円応寺町の南北の通りは、今は千歳橋まで伸びているが、自分の小学校以前には新銅町までしか道がなく、父と歩いて行って、その先は一面の荒地だった記憶がある。

 千歳公園の池から県営運動場(今は市営グランド)を通って水路が続いており、堤防の東側を北に流れていたという(今も名残がある)。

 今残っている堤防はこのグランドの西北から銅町新道に至る手前の公園までである。途中、二カ所は道で中断している。先日ここを歩いてみた。