旧土地台帳の閲覧 その4

 銅町199番、200番

 

 旧土地台帳は誰でも(身分証明書なしで)無料で閲覧、複写できる。そういう程度に公開されている書類なので、ここでは個人情報ということをあまり気にしないで書いている。

 

 200番は明治時代に、太田~石山~長谷川~大西~横倉~大西と所有者が変わっているが、明治3年銅町絵図の大西仲介の場所と思われる。銅町以外の者が新たに鋳造業を営むとは考えにくいが、なぜこのように頻繁に交代するのか、「買得」と「所有権移転」はどう違うのか、よくわからない。鋳物屋が資金確保のために一時的に土地所有権を売り渡しながら、借地のようにして家業を継続するということなのだろうか。

 

 199番は渡邉夘介から始まるが、これは明治3年絵図の渡辺善七の関係者と推測される。これを明治24年に長谷川丑蔵が買得。昭和14年に長谷川幸蔵に、同時に岩谷清治郎に所有権移転されている。

 岩谷家がこの場所に居住し始めたのは昭和14年からであるとすれば、清治郎の父、文十郎はどこに住まいしていたのか。また長谷川氏から入手しているが、丑蔵や幸蔵が甚六家と関係しているのかどうか、どちらもわからない。

 どうも旧土地台帳から岩谷家と長谷川甚六家とのかかわりに関する証言を確認するには、銅町151番から217番までのすべて(簿冊になっている)を見なければならないようだが、とても個人で実行する気にはなれない。

 

 

 畑の台帳と明治23年馬見ヶ崎川洪水被害

 

 なお、偶々知ったのだが、宅地以外の田畑については別の台帳があり、100番台で記録されているようだ。ただ宅地と違って、100番が「土樋」(千歳橋南端)、108番が「観音堂」(円応寺付近?)などの字(あざ)になっていて、広い範囲に散らばっている印象がある。ちなみに108番は迎接寺の畑で、1畝26歩(56坪)であった。

 100番は明治23年から37年まで「荒地免租年期」となっていて、38年に復旧している。108番は明治23年から27年まで「荒地免租年期」となっていて、28年から33年に復旧するまでは「5割低價」となっている。なぜ荒地になったかというと、明治23年(1890)8月に暴風雨による馬見ヶ崎川の洪水が起こり、山形市北部に大被害があったからであろう。以下は

山形の石橋(眼鏡橋流出の記録) (kumamotokokufu-h.ed.jp)

からの引用である。(元は市川幸夫氏の論文。下線筆者)

 

 引用開始

 池田成章日記
 日記の筆者、旧米沢藩士・池田成章はハーバード大学に留学する長男の池田成彬に「時々の通信其時に臨て認めんとすれば、平生思ふ事の半を尽す能はず。因て日記を作り便宜直に郵送し、是を書簡に換るものなり。」として認めた日記である。明治二十三年八月の冒頭部分である。

四日。山形鉄道事件に付、来る六日、創立委員会開会に付、五日迄、出形可致旨申来る。商社出勤、如例。
五日。午前十時過、馬車にて出形。赤湯迄、代言士加藤東三郎同車。同所昼食。午後四時過、着形。是夜風雨起る。
六日。昨夜来の風雨益烈し。午前十時、鉄道事務局へ集会。佐藤里治宅にて午飯を餐し、午後三時、委員一同県知事の官舎に至る。夕陽より洪水となり、警鐘の声終宵絶へず。
七日。風雨益甚し。山形市の東に当る馬見ヶ崎川の堤防数ヶ所潰裂し、山形市内県庁前の街路を界りて、北部の第宅悉く迸水の浸漬する所となる。就中県庁前の街路は、深さ四五尺、激流奔逸、南北の通路を遮断して、行人往来するを能はず
八日。風雨漸く治ると雖、溢水尚退かず。県官、警察吏員等の尽力一方ならず。市役所より諸旅籠屋に命じて飯米炊かしめ、一時の窮を救ふ。余の投宿したる旅舎も、二昼夜の間一睡を得ず炊出しに従事せり。是日、余、市内の知人を見舞んとて旅籠町へ両度参りたるも、僅かに一丁斗り隔て、向ふに見ゆる家へ近寄能はず、空しく帰舎せり。昨日来、米沢よりの電信郵便、共々に途絶し一切通信を得ず。飛語訛言甚しく、旅客首を疾ましむと雖、余は、電信郵便の力に藉らずして来るものは所謂風説のみ、風の力を以来るものは取るに足らずと談笑自若。米沢の通路、所謂逆巻の石橋流出して帰途に就く能はず。空敷二日間、客舎に滞在す。此石橋は、眼鏡橋にて三島代に造立する所。金二万円を消費したるが、一朝の風雨に際し、基礎を留めず悉く流亡したるは誠に嘆ずべし。
九日。天晴。逆巻の仮橋成るを報ず。此風雨に逢ふて滞留の旅客一時に出発す。同行九人あり。余、先導して逆巻に至れば(山形を距る壱里半)架橋工事の央にして稍く横木を架し板を敷く半に過ぎず。余、跣足下駄を提げ辛ふじて先へ渉りたるも余に踵く者は、工事未だ成らざるを以、悉く抑留せられて渉る能はず。余、後人の至るを待つに堪へず。壱人馬車を命じて帰宅したる、午後四時過なり。

 

気象の状況
 「山形県災異年表」によると、常磐橋が流出した明治二十三年(一八九〇)は「二、三、四月高温七月低温、十二月の暖気希有の現象なり。十二月九日夜大隕星、明月よりも尚明にして光りの后の響百雷の同時に鳴り渡るが如く、路上の人夫の中に失心せるもの多かりしといふ。八月五日夜より七日にわたる大雨、同二十二、三両日の大雨、並びに九月七日、八日両日の強風のため馬見ヶ崎川出水し、家屋の流出十七戸、破壊一一九戸、浸水一二五九戸、道路破壊一六〇〇間、堤防欠潰一七六〇間、破壊六〇〇間、宅地田畑の浸水一六二町歩、溺死者三人、負傷三人の被害をみたり」とある。  
 八日になり漸く雨は収まったものの、須川の水は増し、池田成章及び大町念仏講帳の記載から判断するに、この八日に常磐橋は破壊されたようである。対岸にある片谷地の古老の話によれば、石橋は片谷地側の左岸から崩れたと伝えられている。

 引用終わり

 

 銅町周辺の田畑への被害も大きかったと推測されるが、100番は銅町の北突端、千歳橋南側であり、観音堂は銅町東の堤防外側である。江戸時代のような、町内の鋳物工場への被害は堤防によって食い止められたのだろう。翌々年の明治25年には、小野田才助を中心に、銅町挙げて宮城県金華山黄金神社に寄進された大灯篭を鋳造している。

 

 実のところ銅町堤防がいつ造られたのか、はっきりしない。明治初めにはあったし、昭和30年代半ばに撤去されたのはわかるが、正確な月日は不明だ。調べ方が足りないのだろう。