旧土地台帳の閲覧 その3

 銅町201番から203番について閲覧した

 

 201番は一貫して岩田氏の所有である。これは明治3年銅町絵図の岩田祐太郎の場所であろう。岩田家は現在も銅町に居住する。検断だった長谷川總次右衛門家の末裔のEさんから、自分らが高校生の時漢文を教わった岩田先生の生家だと聞いた。昔の写真で、二階建ての大きな茅葺屋根がかろうじて写っているのが岩田家だと教えられた。

 面積は3畝26歩(116坪)。

 

 202番の所有者は庄司𠀋吉から始まって明治33年に長谷川長吉(通り西向かいの長吉であろう)に移り、大正10年に(21年ぶりに)庄司治右衛門に移り、以後、戦前は庄司氏が続いている。

 面積は5畝29歩(179坪)。

 

 203番の所有者は庄司彌助から始まって、明治32年に明治村字灰塚の藤田茂八の所有となったが、二年後の明治34年に庄司彌助にもどっている。以後、明治42年に庄司安兵衛(安兵衛! 長兵衛家の過去帳にある菅原安兵衛と関係があるか?)、大正10年に庄司敬一と続き、大正13年に齋藤勘三郎に移った。

 面積は3畝10歩(100坪)。

 

 以上の台帳の記述と地番入りの地図、江戸時代の川欠図、明治3年銅町絵図などを考え合わせると以下のように考えられる。

 

 202番と203番合わせて9畝9歩(279坪)は庄司治右衛門家の土地だった。二つに分かれているのは分家したためだろう。この土地は、戦後昭和30年代半ばに東西の道路を切り通したため宅地でなくなり、岩田家と旧長谷川家(現月山堂)の間が道になっている。この時に東側の堤防も撤去されたようだ。

 

 同様に、204番と204番の1を合わせた8畝13歩(253坪)は長谷川甚六の土地だった。そして205番の5畝24歩(174坪)が長谷川甚吉ー長蔵ー長兵衛の土地だった。明治20年代までに長兵衛家が甚六家の土地を所有した。

 長兵衛同一人の所有なのになぜ台帳では2筆になっているのか? おそらく長兵衛の土地取得が台帳作成から遠くない時期、あるいは直前だったからではないか。もっと考えれば、甚六家にもどす可能性も考えていたかもしれない。

 甚吉は文化年間に甚六家から分家したとみられ、もともとの甚六家は1反4畝7歩の土地だったのだろう。

 この二筆は戦後昭和29年に205番に合筆された。

 このように町内で地番が分かれたり合わさったりしたため、古地図との照合が分かりにくくなっている。

 

 それぞれの奥行きは、間口を「一軒前」で4間半とすると、庄司治右衛門家が62間(112m)、長谷川甚六家が56間(101m)。長谷川甚吉~長兵衛家の間口は「半軒前」で2間とすると、奥行き87間(157m)になる。しかしもう少し間口があるようなので奥行きはもっと少ないだろう。奥行き100m程度とすれば間口は3間以上になる。現在の月山堂店舗の間口は6間半以上ありそうだ。だが現在の地図の縮尺から見ると奥行きは70~80m程度のように見える。道路拡張による減少などの理由があるようだ(現在の歩道の際まで屋敷だったから、2間くらい後退している)。

 一体、銅町通りの東側の町割りは、西側の小野田平左衛門家などに比べて奥行きが少ないが、これはもちろん、文政の大洪水後に東側に堤防が築かれたせいであろう。

 

 こうしてみると甚六家の場所は地図のとおりで、明治時代には204番地であり、旧土地台帳が作成された明治30年ころまでには長兵衛家の所有になっていたことが強く推測される。甚六や文太郎?の名が台帳に出てこないのは、それ以前に銅町から消えたからであろう。

 岩谷家に養子に入ったという弟の文十郎?については、200番か199番の大西家の裏になるようだが、この地番で台帳に出てくるかはわからない。

 また法務局に行くか……。