銅町長谷川長兵衛家について旧土地台帳を閲覧

 長谷川甚六家と長谷川長兵衛家について

 最近(昨年末あたり)国立国会図書館のデジタル化が進み、蔵書内の人物名検索までできるようになっている。地名と人名を入力すると、たちどころに地方の文献まで検索してくれることを知った。これはすごいことで、居ながらにして調べものが進む。

 試しに「山形市銅町 長谷川甚六」で検索したところ、『山形市史』別巻2の一文が出てきた。

 「岩谷家はもと歩町に居住していたが、明治の中頃、銅町の長谷川文太郎(福井屋長谷川甚六家)の弟文十郎が養子に入り、その後銅町で鋳物業を営んだという。」「文十郎の長男が清治郎氏である。」(下線筆者)

 下線部によって、甚六家が明治の中頃まで存在し、当主は文太郎であること、また、「福井屋」と名乗っていたことがわかる。これまで自分の考えていた甚六家の終焉時期(明治5年ころ断絶か)が間違っていたことになる。さらに、旧甚六家の場所に居住した長谷川長兵衛家と屋号(福井屋)が同じであり、甚六家と長兵衛家のつながりがさらに強く感じられるが、これ以上詳しいことはわからない。銅町の岩谷家は今絶えているようである。

 明治の中頃と言えば、長兵衛家は明治21年に五代目(義母ミヨを四代とする)平治郎(婿養子)が相続し、翌年長兵衛に改名している。

 

 そこで、法務局に行き、「旧土地台帳」を閲覧、複写してもらった(YouTubeで知った先祖探しの方法である)。

 

 

 

 銅町205番の所有主は一番古いところで「長谷川長兵衛」になっており、次が「明治七年一月十一日 所有権保存 長谷川長兵衛」、その次が「大正十三年九月二十七日 所有権移転 長谷川甚吉」である(「相続」でなく「所有権移転」なのが気になる)。甚吉は五代目長兵衛の長男で六代目になる。

 これによれば、少なくともこの台帳が作られた時点では既に長兵衛家の土地になっていて、それは明治7年以前であるかと思われるが、明治7年の長兵衛は三代目であり、四代目ミヨ(三代目妻)と五代目平治郎(小野田平左衛門家からの婿養子、長兵衛に改名)の相続の記述が抜けているのは不審である。

 台帳のこの頁の登記年月日欄はすべて「明治 年 月 日」と印字してあり、大正、昭和はその「明治」を消して上書きしている。注意すべきは上書きするのを忘れて年月日の数字だけを記入した恐れがあることだ。実際、後の欄では「昭和」に直すべきところを「S」にしていたり、「明治」のままだったりしている。

 とすると「明治七年」は「大正七年」が正しく、「長兵衛」は両欄とも五代目のことなので「所有権保存」になっているのだと理解される。

 調べてみると、旧土地台帳は明治22年ころから作成されたもので、明治7年の記載はそもそもありえないことのようである。この台帳も「沿革」の欄の最初が明治31年の法律によって記載されている。

 結局甚六家から長兵衛家への土地移譲がいつ行われたのかは、「明治31年以前」としか確認できない。そして幕末の甚六から明治時代半ばの文太郎、文十郎兄弟までの一代が不明である。あの城下払いの甚助(甚介?)が継いだのであれば、今度はその子?文太郎はどこに居住したのか、205番地だったなら明治何年に長兵衛家に変わったのか。この時代の両家の関係はまだまだ分からない。とにかく、文太郎と文十郎について調べることになる。

 この土地は甚吉が45歳の昭和7年に手放していることが分かる。筆者の母が数え13歳の時である。長兵衛家も大正時代の隆盛期は瞬く間に過ぎ、すでに長女を女学校に入れる経済的余裕も無くなっていたのだ。

 ただし、昭和15年5月に甚吉の孫(長蔵の子)の出生届が本籍でなされていることから、昭和19年7月に原田氏に所有が移るまでは、少なくとも205番には長谷川家が居住していたと思われる。自分の母が言っていた「小さな家に移った」というのは204番を譲り、205番の一棟に移ったということなのかもしれないがわからない。

銅町長谷川甚六と長谷川長兵衛の関係 - 晩鶯余録 (hatenablog.com)

 

 

 小野田平左衛門家の工場について

 銅町156番についても見てみた。予想通り最初の所有主は小野田平左衛門であるが、これは九代目常吉明治31年6月に没した後に相続した友助のことだろう。友助は11代目とされるが、10代目についてはよくわからない。友助は10歳年長の叔父才助とともに小野田工場を隆盛に導いた。しかし、名工才助は大正4年末に70歳で没し、翌年には友助の子平太郎も35歳の若さで没する。還暦を過ぎた友助は、あたかも主たる経営者であった感のある叔父と跡取りとを立て続けに失い、幼い孫の薫を抱えて工場を続ける気力が無くなったのか、大正10年に66歳で没する。

 小野田工場の土地は、友助によって大正元年10月に所有権保存されているが、大正6年7月に長谷川長兵衛(小野田平治郎)に所有権移転されている。小野田平太郎の死の翌年である。そして大正13年9月に長兵衛の長男甚吉に所有権移転、翌月にはその弟甚太郎に所有権が移転され、12月にはそこに甚太郎が分家する。

 小野田友助と平治郎は兄弟で、平治郎が長谷川長兵衛家の婿養子になっている。友助は自分の工場を4歳下の弟に頼んだのだろう。平治郎(五代目長兵衛)は息子たちにそこを継がせた。兄の甚吉はいずれ自家の(〇井)福井工場を継ぐので、弟の甚太郎が小野田工場をまかされた。「小野田工場」の名は残しながら、甚吉も仕事を手伝っていた。この時期には両工場が「小野田」の名で製造していたことが、当時のゴム印からわかる。才助の没後も才助の受けた注文を二人でこなしていたのであろう。

 小野田工場は後に〇ヰ、さらにマルイ工場となって現存する。今は甚太郎のお孫さんが経営している。

 しかしこの土地は昭和6年に156番の1と2に分割され、2の所有権を佐藤氏に、10年に1を遠藤氏に移転し、甚太郎の手を離れているようだ。その後はわからない。

小野田才助と酒田大仏 小野田商店と長谷川家 - 晩鶯余録 (hatenablog.com)