旧土地台帳の閲覧 その2

 前回、銅町205番の長谷川長兵衛家と156番の小野田平左衛門家について、その土地の所有者の変遷を見た。これはかねての予想を裏付けるものだった。

 しかし長兵衛家の戸籍を見ると、この他に157番や161番という地番が出てくる。生まれた場所と亡くなった場所とである。本籍以外で生没者がいるのはどういうことか。これを調べに法務局を再訪した。

 

  山形市街図 番地及筆界入 昭和4年3月

 

157番について

 結果、157番も小野田家の所有であり、隣接する156番と同じく、大正6年に長谷川長兵衛の所有となったことがわかった。156番の面積は1反2畝5歩で、157番は1反2畝23歩ほどである。それぞれ365坪(間口が4間半なら奥行きは81間)、383坪(間口が4間半なら奥行きは85間)になる。実測していないので正確にはわからないが、細長いウナギの寝床のような土地である。工場と住居合わせてだからこの広さが必要なのだろう。なお江戸時代には間口は4間ないし4間半と決められていて、この間口を半分にしたものを「半軒前」と言ったようだ。銅町の持つ特性として、土地を分家に分けることで次第に細分化していった。

 156番と157番を合わせて広大な小野田工場ができていたのだろう。それを長谷川家が引き継いだということである。

 

161番について

 161番は江戸時代以来、庄司清吉の土地であった。これが明治27年8月に西村山郡泉村の日塔長蔵に所有権が移った。日塔家が鋳物業を営んだのかどうか定かではないが、明治39年11月には所有者が日塔清次郎から小野田才助に移っている。

 才助名義の土地があったのである。

 しかし、才助自身は156番に住んでいたから、これはただ工場を増やしたということなのだろう。つまり日塔氏の時期も鋳物工場は稼働していたのではないか。才助は多くの仕事を引き受け、設備と職人が不足したので、かつての庄司清吉の工場を引き取ったのではないか。

 さらに妄想を逞しくすれば、日露戦争後本格化した酒田大仏鋳造に向けての工場確保だったかもしれない。平左衛門家の友助に遠慮せずに自分の一世一代の大仕事ができる工場を求めたのではなかったか。大仏の仕事は大赤字だったかもしれないが、それが直接に本家平左衛門家の経営に影響しないようにする配慮もあったかもしれない。結局この赤字=負債は、土地と工場を買い取ることで長谷川長兵衛家が引き受けたことになるのかもしれない。

 161番の広さは1反2畝9歩(369坪)であり、156・157番とほぼ同じである。4間半×80間というのが町割りの標準だったのだろうか。

 面白いことに、台帳から大正3年6月に才助が「斎助」と改名したことがわかる。これは才助の亡くなる1年半前のことである。しかしなぜ改名したのか、またこの名がどのくらい通用したかは、わからない。自分でもあまり使用しなかったのではないか。

 

 才助が大正4年の末に亡くなると161番は台帳の上では小野田うん(らん?)が引き継いだ。大正6年2月だから才助の没後1年以上経っている。小野田うんは156番に居住していたが、才助との関係は不明である。才助の妻は若死にしたというから後妻かその娘か(そもそも再婚したかも不明だが)、あるいは前年に没した平太郎の妻かもしれないがわからない。2月同日、161番は長谷川甚太郎の所有になった。つまり、手続き上、故人となった才助の土地を血縁者が相続したうえで、甚太郎に渡したのだろう。

 156番、157番を甚太郎が受け継いだのは大正13年であるが、すでにその7年前に才助の土地を継いでいた。大正6年にはまだ父の長兵衛が健在で、156・157番の土地も所有しており、甚太郎も161番に分家はしていないのだが、子供たち(ミツや久雄など)はここで生まれているから、甚太郎一家は205番を離れてここに居住したのだろう(といってもほとんど通りを挟んだ斜め向かいだが)。

 大正13年の5月に長兵衛が没すると土地の所有も大きく変化する。10月末・11月初めに161番は甚太郎の手を離れる。土地は三つに分けて(6畝・3畝・2畝くらい)、東海林氏と工藤氏と吾妻氏に移った。この後、東海林氏は魚屋を吾妻氏は鋳造所と工務所を経営したようだ。

 この機会に、甚太郎は156・157番の旧小野田家の土地に分家する。兄の甚吉は205番の実家を相続する。

 甚吉、甚太郎兄弟は「小野田商店」名で商売するが、甚吉のスタンプには「銅町二〇五」、甚太郎のスタンプには「銅町一五六」とのみ記されている。

 昭和に入ると、6年に156番の半分くらいを分割し佐藤氏に渡している。この場所は清光堂鋳造所になったのかもしれない。10年には残り半分も遠藤氏に渡し、157番も3畝を粕谷氏に9畝を斎藤氏に渡した。こうして長谷川家は205番も156・157番も手放してしまった。

 

 昭和17年6月、甚太郎は157番を買い戻したようだ。以後、34年に息子の長一郎に受け継がれ、現在もマルイ鋳造所として存続している。

 

204番、204番の1について

 205番の土地が5畝24歩とほぼ半軒前の広さであるので、204番についても見てみたところ205番の北隣のこの土地も、長谷川長兵衛の所有であることがわかった。昭和29年に合筆され205番となるまでは、二つに分かれていたのである。

 204番は7畝13歩あり、加えて204番の1として1畝ある。205番と合わせると1反4畝ほどになる。

 205番が甚吉ー長蔵ー長兵衛の土地であるとすると、204番こそが甚六の土地ということになるのではないか。しかし甚六も「一軒前」の土地を持っていただろうから、この広さ(7~8畝)は不審である。思うに明治20年代、甚六家の最後の文太郎?の時期に何らかの土地の分割があり、一部を長兵衛が引き継いだということなのではないか。

 しかしこれは、もう一度法務局に出向き、203番以北の所有について確認してからのことになる。