小野田才助と酒田大仏(続) 造立当時の写真4葉から

 酒田大仏と小野田才助の関わりを、長谷川清氏所蔵の写真(a)と小冊子『酒田大仏縁起』に掲載されている3葉の写真(bcd)を中心にしてまとめてみた。
 この「酒田大仏」とは大正3年(1914)に酒田市日和山公園下にある曹洞宗良茂山持地院に建立された、高さ3丈5尺(10.6㍍)、台座から光背頂まで4丈3尺(13㍍余)の釈迦牟尼佛立像のことである。
 現在、現地にある大仏は平成4年(1892)に再建されたものであり、初代の大仏は昭和18年(1943)、金属供出により解体されて現存しない。
 山形市銅町のマルイ鋳造所、長谷川清氏所蔵の写真(a)に大仏全体の写っているものがあり、「明治四十五年五月」と日付が書かれている。光背がないが、ほぼ完成しているとみられる。開眼供養が大正3年6月1日に行われているが、この間2年間あるのが不審であった。

 当初、明治45年の写真(a)は現地で撮影されたものと考えられた。長谷川清さんやハッピープロダクツの長谷川徹雄さんと写真を見ながら話して、「溶接技術のない当時には、(奈良や鎌倉の大仏同様に)一体として鋳造しただろう。完成してからは大きすぎて搬送できないから、現地で鋳造したのだろう」と推測された。
 しかし、写真では背景に小屋のような建物群が見えるが、現地ではここが小山になっているので、地形が合わないのが不審であった。また、現地で鋳造するとしてもその設備一式を持ってゆく必要があるし、溶けた金属を高所に運び上げる方法が分からず、職人たちも長期間寝泊まりしなければならないので、現実的ではないとも思われた。
 今回持地院を訪ねて当代のご住職にお伺いしたが、昔のことであり詳細は分からないとのことだった。しかし、頂戴した大仏再建の記録小冊子『釋迦牟尼佛立像 酒田大仏縁起』掲載の古い写真を見て疑問が解けた。1枚は大正3年に現地で大仏を組み立てている
途中の写真(b)、もう1枚は供出後に残された、大仏胴体内部にあったコンクリート製支柱の写真(c)である。
 つまり、山形市銅町で達磨落としのように分割して鋳造し、酒田の現地で組み上げたのである。中に支柱があるのは、巨大な立像を溶接せずに組み上げても、耐震性等が確保できると考えた工夫なのだろう。
 コンクリートの支柱は、大仏供出後も再建されるまで残っていたという。その中には地蔵の頭部らしき石仏が埋め込まれていたという。(また骨が納められたともいう)
 したがって明治45年5月の写真は、銅町に於いて仮組み立てした際のものと考えられる。
 背景に写っている建物は小野田工場なのであろう。よく見れば大仏の体には分割された横線が見て取れる。勿論、単純に積み上げるのではなく、才助の他の作品、たとえば山寺奥の院の大燈籠のように、巧妙に組み合わせる技術があったのである。
 現地での組み立て途中の写真(b)や開眼供養の写真(d)からは、滑車を使っている様子が見て取れる。大仏には屋根がかけてあるが、銅町の写真(a)では三方に壁板があって、現地写真のものは骨組みだけである。(⒜には5人の人物が写っているが、大仏足元の白い着物の人物は小野田才助かもしれない。)

 

写真(a) 長谷川清氏所蔵

 

 

写真(b) 「酒田大佛縁起」より

 

写真(c) 「酒田大佛縁起」より

 

 さて、明治45年(1912)5月にほぼ完成した大仏が、大正3年(1914)6月直前に現地で組み立てられるまでの2年間、どこにどのように保管されていたのかが分からない。小野田工場で仮に組み上げた際の屋根は三方がしっかり板囲いしてあるので、わりに長期間このままの状態だったのかもしれない。分解して保管しただろうが、巨大なので場所をとっただろう。あるいはこの後、光背を鋳造するのに時間を要したのかも知れない。
 いずれにせよ、現地に輸送されたのは大正3年春以降と考えてよいのではないだろうか。(後日補記 酒田市史年表改訂版1988によると、大正3年11月8日に「持地院境内に銅の大佛を建立する。…本山永平寺貫主森田悟由が新井石禅とともに点眼式に臨む」とある。典拠は『酒田港誌』とある。これだと6月よりは5ヶ月遅れになる。写真では6月の梅雨時なのか11月の時雨時なのか判断できない。 2022年10月3日記)
 解体された大仏は、鉄道の通じていない当時、おそらく最上川舟運によって運ばれたのだろう。再建された二代目の大仏は、10トントラック4台で運ばれたという。これからみても、大正初期当時、陸路の運搬は甚だ困難であっただろうと推測される。
 運搬時、現地では土台と大仏を内部で支えるコンクリート製の巨大な柱の工事が終わっていただろう。その柱を包み込むように輪切りの大仏が組み上げられていったのだ。
 開眼供養の際の写真を見ると、完成時からすでに光背が付けられていたことが分かるので、これも小野田工場で作られたものに違いないだろう。ただ、現地に立つ写真(絵葉書)でも、光背のないものがあるので、後々塩害で損じるかどうかしたのかも知れないが分からない。
 開眼供養の写真(d)は、現在の台座に陶板で焼かれているので、少し前からウエブで見ることができたが、今回現地で見ると、より詳細な様子が分かった。職人たちは足場に登っているが、左側だけで10人いる。その内数人が着ている印半纏の襟の文字は読み取れないが、明らかに「小野田」・「銅町/\丸」ではないので、小野田工場の職人ではないのかもしれない。(現地の鳶職なのかも知れないが、分からない)

 

 

写真(d) 大佛台座の銘板、開眼供養の陶板写真(部分拡大)

 

 「大正三年六月一日 釈迦大佛開眼式紀年」絵葉書より部分拡大 横からの写真は光背の反りや肩の衣文、後頭部の螺髪の様子などがわかり、貴重である。像には横線に加えて縦線があり、細かく部分に分けて鋳造したことが推察される。 (令和6年3月26日、追加掲載)

 

『酒田大佛縁起』掲載の記事で、以下のような記述がある。
 「三十七世大滝宗渕が日清、日露戦争戦没者並に明治二十七年の庄内大地震での死者を弔うため大佛建立を発願して近在を托鉢して廻ったのは明治二十九年頃からである。檀信徒から古銅の手鏡、古銭やらかんざし、煙管と云った金具類の寄進を受けて先づおつむり(頭部)を鋳造した。続けて胸、胴とその完成を目指して遠くセイロンあたりまで足を伸ばして喜捨を求めて廻ったが、留守中持地院が火災に逢ったりして事志と違い、頭部だけ仮本堂の側に安置して十数年が瞬く間に過ぎた。是が非でもと云う宗渕の固い悲願に動かされて、私の祖父善兵衛が施主となり、山形の小野田才助に嘱して大佛を建立したのは大正三年である。台座から光背(頭光)まで四丈三尺(十三メートル余)銅の立像佛では当時全国でも類を見ない大きな佛さまであった。」 池田宗機


 「子供の時、おつむりを長い間本堂の側に安置していたのを知っているし、大佛さまが出来てからは祖父に連れられてお寺詣りの都度拝んだので、ご面相のよい大佛さまは一種の親しみを持って瞼に焼きついている。(中略)往年の酒田大佛については解明したいことがいろいろある。おつむりを鋳造したのが小野田才助であったか、その時期なども詳らかで無い。大佛さまを山形から運んで来たのは、たぶん船であろうと思われるが、これもハッキリしない。」 佐藤公太郎

 

 『酒田大佛縁起』によれば、大仏(釈迦牟尼仏立像)製作は明治 29 年(1896)ころから本格化し、まず頭部を製作したということだが、その後、寺の火災、資金難、日露戦争などで 10 年以上もの間進展せず、明治末年に至ってようやく全体が完成した。その間、首から下へと胴体も順次製作されていったものか、明治末になってから一気に作られたものかは分からない。前者であれば、頭部以外は完成まで銅町の小野田工場で長期間保管していたと思われる。
 その間、頭部だけは持地院仮本堂に安置されていたというが、これが小野田才助の作かどうかも未確認であるという。しかし、頭部だけが別人の作ということも考えにくい。


 小野田才助は明治 29 年(1896)には満 50 歳となり、職人としても円熟期を迎えていた。明治 27 年(1894)には東田川郡立川町(庄内町)狩川字阿古屋、冷岩寺(ここは後の宗渕、大滝三蔵が明治7年14歳の時弟子入りした寺である。才助と宗渕の接点となった可能性がある。)の梵鐘を、明治30年(1897)には飽海郡平田町田沢菅沼、龍雲寺の梵鐘を製作して、庄内地方にも作品を残しており、明治27年には金華山神社に、明治 28 年(1895)には香川県琴平町金刀比羅宮と山寺奥院の三大燈籠を製作して、彼の名は広く知られるようになっていたと思われる。したがって大仏鋳造も当初から才助に依頼されたものと考えて不都合はないだろう。また全体の設計図があれば、頭部だけ酒田にあっても山形で胴体の製作を続行できただろう。最終的には銅町に頭部を運んで組み立てたことになるが。
 また、幼いころに頭部だけ安置してあるのを見たという方も、完成した大仏の表情に違和感を感じた様子がないということが、その頭部が実際に用いられたことを示唆しているのではないか。
 なお、供出時に大仏建立記念の梵鐘も出されたということだが、この梵鐘が誰の手になるものかは未詳である。

 現在の大仏台座にある銘板の文章を以下に引用してみる。前段が初代大仏の建立から解体までの経緯であり、後段は現在の大仏再建に至る経緯である。
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酒田大佛再建の歩み
日清戦争中の明治二十七年十月二十二日午後五時三十七分、突如として庄内地方に大震災が発生した。酒田町内だけでも全焼家屋千七百四十七戸、倒壊家屋千五百五十八戸、死者二百二十三名という大惨事となった。
この時に持地院本堂、庫裡も倒壊し、住職大滝宗渕和尚の母堂も圧死するという悲劇にあった。宗渕和尚は日清戦争による戦病死者と酒田大地震の霊を弔うために釋迦牟尼佛尊像の建立を発願し、一代で財を成し肝胆相照らす仲の檀徒佐藤善兵衛翁に相談の結果、多額の資金協力を受ける見通しがついた。
宗渕和尚自身も托鉢を続け銅銭や古鏡などの銅製品と志納金勧募のため檀徒はもちろん、国内から朝鮮、中国まで足を伸ばした。しかし復興して間もない本堂が中国募金中の明治三十二年に焼失し、本堂再建に奔走の結果、明治三十五年に竣工することができた。そのうちに日露戦争が勃発して大佛建立も一頓挫をきたした。
明治四十四年に大佛に日露戦争の戦病死者の霊も弔うことにし、寝食を忘れて熱心に募金活動に励んだ。その苦労がみのり建立発願してから二十年目にあたる、大正三年六月一日に、十三メートル余、立像としては日本一の金銅釋迦牟尼佛(酒田大佛)を造立し、大本山永平寺貫主森田悟由禅師を大導師としてお迎えし、盛大なる開眼大法要を厳修された。以来、天下泰平、家内安全、所願成就を願う多くの信者が全国各地から集まり、大佛尊前の香煙の消える日は無かった。
しかし、太平洋戦争末期に国の金属回収令により、大佛と大佛尊像前の大香炉、ならびに大佛建立を記念して鋳造された大梵鐘の供出を命じられた。三十八世住職宗雄和尚は、戦没者の霊を祭る信仰の対象である大佛だけは除外するように関係機関に懇願したが、ついに昭和十八年強制的に解体された。
宗雄和尚は、先師が発願してから二十年の歳月をかけ、たび重なる苦労の末に完成した大佛を、自分の代に失ったことに苦しみ、再建を畢生の悲願とされた。昭和五十九年から再建のための檀徒会議を開いたり本格的に取り組み始め、大佛原型の作製を現代における佛像彫刻家として著名な鏡恒夫氏に依頼されたが、その完成を見ないまま病床に臥し昭和六十年二月に他界された。
前住職の遺業を受けついだ三十九世住職宗光和尚は再建に熱意を傾けられ、一方檀信徒間にも信仰佛である酒田大佛再建を願う支援の声が高まり、有縁無縁の僧俗より浄財が寄せられるようになり、ここに再建実行委員会が設置され会長に佐藤久吉氏、事務局長に斎藤八惣八氏を選出し、度重なる実行委員会、小委員会、事務局会を開いて、解体後約五十年ぶりに酒田大佛がよみがえった。平成四年(一九九二年)六月七日の吉日大本山永平寺貫主丹羽廉芳禅師のご親修により開眼大法要を迎えることになった。
無限の慈悲を象徴している酒田大佛は、慈眼のまなざしで左手は与願(人々の願いを聞く)、右手は施無畏(人々の不安を取り除く)の手の形を示し、人々の苦痛を除去し安楽を与えるため、いわば衆生済度する姿ということで立像となっている。仏頭二メートル五十センチ、胴体十メートル五十センチで像高十三メートル、蓮台と基壇をいれると十七メートルで、青銅釋迦牟尼佛の立像としては日本一の高さである。
この大尊像の設計監理は東京都の翆雲堂、鋳造が奈良県の金井工芸鋳造所、基壇ならびに境内環境整備の設計は山崎建築設計事務所、その工事は加藤組が担当し完成したものである。 池田宗機
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再建後に発行された小冊子『釋迦牟尼佛立像 酒田大佛縁起』冒頭には「宗雄和尚の
悲願」として、
「…前半略…宗雄和尚は供出を命じられたとき、県庁や関係機関に出向いて多くの信者のいる、しかも英霊を祭っている大佛なので供出を除外するように、役人の前に土下座し、泣きながら懇願する姿を、役人から国策に協力しないのかと一喝され悪口罵言を浴びせられるのを我慢し、ひたすら願ったが冷笑され聞き入れなかったと後日よく語られていた。そして自分の代に失った大佛は、自分の代に再建することを畢生の願いとしていた。」
という一章がある。

『酒田大佛縁起』には次のような記事もある。昭和 54 年(1979)に産経新聞に掲載された記事が主となっている。
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供出した大佛のこと
 大正三年六月に建立された大佛さまは、戦争の末期、昭和十八年に金属回収の名のもとに強制供出させられた。開眼法要の時は私が小学校に入ったばかりだが、子供ごころにもその日の盛儀を覚えている。供出してから五十年を経て、いま大佛様は再建された。
 平成四年六月七日、酒田大佛開眼供養に列して往年を回想すると、まことに夢のようである。昔の大佛さまを思い起し、その建立にまつわる話を、私なりに書きとめて置くことにする。
 現住職宗光和尚が副住職の当時、私が産経新聞に載せた「持地院の大佛さま」を読んで感銘し「コミュニティー新聞」に托して市内全戸に配布した。大佛さまを再建したいと云う念願は檀家は勿論一般の市民の間にも根強く残っていたので、この一文に觸発されて和尚を激励する人、再建に協力したいと云う人が相次いで、宗雄和尚が再建に踏切る起因となった。
 参考に産経新聞に載せた「持地院の大佛さま」を採録する

 山形銅町の小野田才助が鋳造した大佛の古い写真が見つかった。台紙の裏には酒田の日和山に建立されたと書かれてあると云う。「復興酒田」をテレビで追っていたYBCが調べた結果、酒田市上台町(原日吉町)持地院の境内に大正三年に建立されたことが分った。立像では当時日本一と称された銅の釋迦牟尼佛、そして今次太平洋戦争の末期、金属回収の名のもとに供出させられて解体された大佛さまには語るべき事が沢山ある。
 良茂山持地院は応永三年(一三九六)湖海理元の創設で、酒田郊外の小湊に建立され長禄三年(一四五九)に酒田へ移った曹洞宗の寺院である。その三十七世大滝宗渕が日清、日露戦争戦没者並に明治二十七年の庄内大地震での死者を弔うため大佛建立を発願して近在を托鉢して廻ったのは明治二十九年頃からである。檀信徒から古銅の手鏡、古銭やらかんざし、煙管と云った金具類の寄進を受けて先づおつむり(頭部)を鋳造した。続けて胸、胴とその完成を目指して遠くセイロンあたりまで足を伸ばして喜捨を求めて廻ったが、留守中持地院が火災に逢ったりして事志と違い、頭部だけ仮本堂の側に安置して十数年が瞬く間に過ぎた。是が非でもと云う宗渕の固い悲願に動かされて、私の祖父善兵衛が施主となり、山形の小野田才助に嘱して大佛を建立したのは大正三年である。台座から光背(頭光)まで四丈三尺(十三メートル余)銅の立像佛では当時全国でも類を見ない大きな佛さまであった。
 大正三年六月、永平寺貫主森田悟由禅師を招聘して開眼供養をした時の盛儀は、その年小学校に入ったばかりの私もハッキリ覚えている。酒田名所絵葉書にも掲載され持地院の大佛は酒田は勿論、庄内の名物となった。
 大滝宗渕は明治の末自分の寺の境内に育児院を開設して孤児を収容し、その養育に当たり、今で云う児童福祉事業の先駆者であった。寺の門前にあった森の山を大佛さまの背後の現在地に移すなど、大方の真似の出来ない業績を残して持地院中興の祖と称された傑僧である。私の祖父善兵衛も慈善事業に微力を致した人で、二人は肝胆相照らして寺門興隆に尽力した。強烈な個性で世間を睥睨した宗渕和尚と、我儘の限りを尽した祖父善兵衛は相談したように昭和八年相次いでこの世を去った。
(中略)
 金属回収が始まって、うち中の銅鉄は佛具の果てまで供出させられた。
 大佛さまは信仰の対象であるとの理由で除外を懇請し、最後まで頑張ったが国策と云う大義名分の前に無残にも毀され解体された。陸軍騎兵中尉として応召していた本間光正氏が「この際、国策に添って供出して呉れ。戦争が治ったら、自分が再建してあげるから」と、これも陸軍騎兵中尉で招集を受けた現住職の大滝宗雄和尚を説得したことは当時の関係者が大方死亡している現在、これを証明する術が無い。本間家の当主だった光正氏は終戦を待たずに戦病死し、光正氏と宗雄和尚とが約束を交わした席に居合わせた誰彼も今はみんな亡くなって、この事実は茫々忘却の彼方に消え去った。自分の代に供出して姿を消した大佛さまを再建することは、畢生の悲願だと口癖のように云っている宗雄和尚も喜寿に近く近来健康が勝れない。悲願成就の日が来るかどうか。戦争の残していったものには、こうしたすでに忘れ去られたと思われるものも数々ある。自分の身うちの事に及ぶので大佛さまについてはこれまで語ることを遠慮して来たが、頃日YBCラジオで喋らされたのを機縁に、建立と供出の委細についてその輪郭を書きとめて置くことにした。
 持地院の境内には大佛さまの脱けがらであるコンクリートの巨柱が今も立っている。これを仰ぐ度毎に往年が思い出されて、何か空しいと云った感慨に打たれるのである。(昭和五十四年五月)

 子供の時、おつむりを長い間本堂の側に安置していたのを知っているし、大佛さまが出来てからは祖父に連れられてお寺詣りの都度拝んだので、ご面相のよい大佛さまは一種の親しみを持って瞼に焼きついている。正徳寺の授戒においでなった秦慧昭禅師に乞うて、大佛さまを拝んで頂いたのが昭和十三年の春で、禅師は大佛さまのお足を撫でられて感無量の態であった。東光寺の伊藤源宗和尚からお願いして貰って、祖父の遺像に賛をして頂いたのは前述の通りである。そしてこの遺像は、供出させられて姿を消した酒田大佛を偲ぶ結縁として私の秘蔵している幅である。
 往年の酒田大佛については解明したいことがいろいろある。おつむりを鋳造したのが小野田才助であったか、その時期なども詳らかで無い。大佛さまを山形から運んで来たのは、たぶん船であろうと思われるが、これもハッキリしない。この度再建に当って、もとの大佛さまの支柱であったコンクリートを取毀わしたが、それに埋めこまれた地蔵さまの頭部と見られる石佛が出て来た。骨を埋めたことは知っていたが当時の記録が残されていないので確かめようが無い。解体された大佛さまと共に、こうした事実も時の流れが運び去って仕舞った。
 ひと度姿を消した酒田大佛は、自分の代で供出させられ、解体された大佛を是非再建したいとする宗雄和尚の悲願が結実して、宗光和尚によって再建された。私は大正三年六月の酒田大佛と平成四年六月の再建大佛と、二度、開眼供養の盛儀に列することが出来た。
 佛縁広大、建立された大佛さまを拝んで自らの果報に感謝している。
                             (佐藤 公太郎)
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小野田才助と酒田大仏 小野田商店と長谷川家 - 晩鶯余録 (hatenablog.com)