「埋立」西側堤防跡を歩く

 前の記事で「埋立」に触れたが、埋め立て工事の経緯については『堤防落成記念碑』の碑文によってわかる。この石碑は高さ数メートルの大きなもので、護国神社の真裏に木立に囲まれひっそりと立っている。正面は南側埋立地の方を向いているので、護国神社本殿との狭い空間から見るようになる。二重堤防があったのは馬見ヶ崎橋までなので、本当なら橋詰めのバス停留所向かいの公園辺りに立てるのが良かったように思う。少し探してしまった。

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 後日補記 

 この石碑の近くに陣没軍馬の慰霊碑があるのだが、これは元は馬見ヶ崎橋の西詰、山形交通バス停留、待合所の近辺にあったものを現在地に移したということである。とすると、落成記念碑も同様に、初めは馬見ヶ崎橋の所に立てたのを後で護国神社社殿の裏に移したのかもしれない。

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 碑文は明瞭に読むことができたので、写真に撮って書き取った。裏面には市議会議員などの名前が列記してある。

 昭和二十四年の地図を見ると「千歳宮」とあるのが護国神社である。もともと宮町にあったのが昭和九年にこの地に遷座されたもの。当時の呼称は「招魂社」だったが、十四年に「護国神社」に改称。戦後の占領期間は国家神道排除のために名称を「千歳宮」に変えていたのだ。二十七年からは「護国神社」に戻ったはずだが、昭和三十八年の地図でも「千歳宮」と書いてある。さらに昭和五十五年版の地図でも千歳宮と護国神社が併記してあるのは不可解である。

                                塔文社昭和55年版山形市大地図

 昭和四十七年ころ、NHK放送局は香澄町に移転し、その跡には旅籠町の市役所南にあった消防署本部が移っている。旧消防署本部は今は市役所の立体駐車場になっている。

 

 まず南端から歩き始める。上の地図では緑町郵便局からちょっと上った所からになる。郵便局の隣は鯛焼きと団子の店「わかば」。

 北を向いている。右側に石垣が見えるのが堤防の跡であろうか。するとこの上、右(東)側が埋立地ということになる。左(西)側は公園になっているが、落ち込んでいるのでこの道自体が堤防だったのだろう。消防署は電柱の向こうの建物。裏道になる。

 消防署表側に上がってみる。埋立の中央を南北に道路が通っていて、完成当時に両側に桜が植えられた。この道は護国神社まで続いている。道路を挟んで河原側に消防署の訓練場がある。道路南、突き当りになっている辺りから手前が埋立。山は千歳山。

 堤防跡と思われる道にもどって北上する。双月橋(昭和三十八年にはまだ無い)からの通りに出たところで振り返る。

    

 あまり高低差を感じない。道を渡って、さらに北上する。

  

 どんどん下っているが、左右の高低差は感じない。この先、製麺所の所で山形北高校グランド脇の道と合流する。

 南を向いている。左が今来た道。右が北高校グランドからの道。明らかに高低差が分かる。右の道からさらに一段落ち込んでいる。右の道を奥(南)に行くと、

 右が北高校のグランドで一段落ち込んでいる。道は奥の方の北門辺りがより高く、グランドは平らなのでかなりの落ち込みになる。以前は北門のすぐ下に古い校舎があったので、北(手前)に曲がってグランドに下りる急なスロープがあった(今は西に直進するなだらかな坂になっている)。その建物は旧師範学校時代からのもので、北高校になっていつのころからか部室棟になっていた。グランドの向こうの大きな建物は警察官宿舎。

 この道は埋立の堤防ではなかったはずで、これは学校のグランド整備のための段差なのだろう。グランド西(右)端と校舎との間がまた2メートルくらいの段差になっている。幼いころ、旧師範学校の校舎を解体する工事の際、土地が段々になっているのを見上げた記憶が薄っすらとある。北高校が香澄町から現在地に移転したのは昭和三十八年(1963)のことで、その際、旧付属小学校の校舎が取り壊されるのを見たのだろう。

 

 北上すると左(西)が落ち込んだ地形を見られる場所があった。右へ続くのが堤防跡の道で、左側、堤防下への道は緩く下っているが、家屋はその坂からさらに低い位置に建っていることがわかる。

 さらに進むと、急な坂を見つけた。

    

 右側のお宅のように路面の高さに合わせて駐車スペースを設置している家が多い。

 

 さらに行くと、円応寺の堤防跡で見たような階段が何カ所かあった。

  

 

 やがて出た道は左が山形工業高校の角になる。右には護国神社の鳥居に向かう参道がある。参道は埋立中央を南北に通る桜並木と並行する別の道である。

 

 さて目の前にどこかで見たような景色がある。円応寺の堤防跡を探した時と同じだ。

 

     

 私有地なのかもしれないが、意を決して前進する。

     

 草の中を進むと前方が開け、護国神社社務所神社庁らしき屋根が見えた。左側は落ち込んでいて石垣らしきものもある。

 舗装された場所に出たので、振り返って見る。

       

                                      

 正面が護国神社。参道は右側。ここが堤防(埋立)の終点になるのだろう。

 

 

                    いき出版『写真アルバム 山形市の120年』より

 昭和三十一年、埋立の北端から南を望む。左が馬見ヶ崎川。スキャンの際、綴じ目で黒くなっている部分が埋立中央の桜並木の道。左下に、今は護国神社裏に移されている陣没軍馬慰霊碑の頭が写っている。山交バス待合所の所にあった消防の東署望楼から見ている。

 中央奥に千歳山が見えるが、その手前にNHKの高い鉄塔が見え、埋立を一望していることがわかる。