近況雑感と「山形県農地改革史」後半について

 10日ぶりの更新。もう職場に入って2週間以上が淡々と過ぎた。だんだん添削する生徒が重なってきて、忙しくなっている。課題文が(考察の場合分けが分かりにくく不明瞭な)悪文?で読みにくいものもある。日本の人文系学者の論文は、たまに論拠が確かな事実なのか、その人独自の解釈なのか分かりにくい場合がある。(アメリカの学者の出版する本(歴史関係だが)などは頁数が膨大だが綿密な考証の上に書かれているので納得できる事が多い(ただ戦前・戦中の日本への見方は少し偏っている人がいるとは思う)。)

 しかし、ある程度集中して仕事すれば、あとは暇なので本を読んでいる時間もある。以前読んで途中で止めていた『朝鮮戦争の起源』を読み直し始めた。数年前に買ったのだが、この間に自分の知識理解もいくらか増えたのだろうか、以前よりはるかに頭に入ってくるように感じる。上下2巻、分厚いので読み応えがあるが。

 

 『山形県農地改革史』の後半、田畑買収の実際の経緯を読んだ。売買の実務を行う農地委員会の人選からして紛糾する。地主側と小作側そして自小作側の人数比率で揉めるのだ。一方では地主小作間で闇取引のようなことが横行する。闇小作(小作料物納も継続)、分家して自作農化させ土地を譲渡することで田畑を持ち続ける等々。

 昭和21年から27年までに自作の田が46,000町歩以上増え、小作の田が同面積だけ減った。26年までに5町歩以上の耕地を持つ農家は252戸から192戸に減り、一町歩以上二町歩未満の農家は36,000戸から38,000戸に増加した。だが一方で、一町歩未満の戸数も1,000戸ほど増加した。自作・自小作農家戸数は62,700戸増え、小自作・小作農家は54,800戸ほど減った。総数で8,000戸ほど増えたのは、戦後の失業者の帰農などによるようだ。自作農家の創出という目的はある程度達成されたが、零細農家の大量現出という事態は農家経営の問題を生じさせる。農地を売って金に換える者も出る。25年以降の段階では農地の移動が緩和され、再びかつての中農層に集中する向きもあった。村の人間関係、かつての地主ー小作人関係が影響を残している部分も大きかったようだ。

 

 一方、第二次農地改革で強制的な買収への法的救済手段が認められたため、多くの訴えがあり、裁判がおこされる。売買手続き、価格への不満から、そもそも(大日本帝国憲法違反であるというものまであった。その中で山形県では、昭和22年12月に提起された谷地町の田中一策(当時66歳)の裁判が大きい。田中は地主・弁護士・町長・県農地委員であったが、これに元司法大臣法学博士岩田宙慥、元大審院判事神谷建夫、元司法省人事課長河本喜与之らが訴訟代理人となった。

 田中は「同立法は恰もボルシェビキ革命にも比すべき我国古今未曾有の悪法であって明白に憲法違反であるとの考を持ち、この様な悪法から地主、否全国民を救済することこそ自己の使命であると深く感じていた。」「『思うに我国の現状は民主か混乱かの丁度岐れ道に立っている。正に懦夫も亦たつべき時である。』」しかし、田中はまた「小作人を他力(つまり法的措置)で富ますことはかえって休養をむさぼる心を刺戟する」というような、旧弊に染まったといえるような発言もしている。

 県知事を被告としておこされた裁判は、第一次段階では買収処分された土地の所有を認めること。第二次段階では買収対価が「正当な補償」に該当しない不当なものであるという二段構えの訴えだった。

 これに対し、県側は農林大臣秘書官だった吉井晃弁護士並びに地元の大内有恒弁護士を訴訟代理人として対抗した。(大内有恒は昭和19年末から官撰の山形市長を務めたが、公職追放により辞職していた。しかし辞職後も有力弁護士として活動していたことが分かる)

 いろいろ経過はあるが、県知事を被告とするのは失当であり、自作農創設特別措置法は合憲であるとすることで、昭和24年5月、田中らの訴えは棄却・却下された。

 

 『山形県農地改革史』は県立図書館では禁帯出、市立図書館では特別郷土資料で貸出期間も短くカウンター返却、貸出し延長は無し、なのでなかなか詳しく読めない。