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 9月15日の夕暮れの空。妙な影というか雲が見えた。黄砂でも飛んでいたのか?
 
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 下の空は13日の朝、市民会館の搬入口で撮影したもの。秋晴れでしたね。
 
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 正面にある蔦の這った建物のある角から左(西)に道があって、その先にスズラン街という南北の通りがある。南は駅前大通りに達する。この市民会館の土地は昭和22年まで第一高等女学校のあった場所で、写真正面に出てくる道はちょうど校舎の正面玄関に通じていた。左の一角は当時の寄宿舎、今は山形大学の女子寮である。この道の両脇には桜が植えてあり、春には花のアーケードのようであったという。70年前の春、満開の桜の下、ここで弔歌を歌って迎えたのだ。
 
 『「さくらながるる」
 よかったでしたね。素晴らしかったです。
 後半涙が止まらなくなりました。
 人生先を見るのも大切ですが、ふり返って反省してみるという事がいかに大事であるか、二度とあのような時代につき進んではならないと―。
 出演者の熱演が私の心にしみ込みました。 (以下略)』
 
 昭和20年3月に山形第一高等女学校を5年生で卒業された方からのお葉書です。
 この方からは学校の会議室で長時間お話を伺いました。19年に東京から疎開してきて半年ばかりの在学期間でしたが、卒業後は小学校の先生として県内でお勤めになりました。
 20年の4月19日には、大空襲を受け、川崎市から帰形した高女の生徒(3月に4年生終了で繰り上げ卒業していたが引き続き勤労動員で川崎の工場にいた人たち)が山形駅から近くの高女まで歩くのを沿道で迎えたそうです。5人の遺骨の箱を首から提げて進む生徒たちを、町の人々は涙ながらに迎え、スズラン街は泣き声で一杯だったと聞きました。
 
 そのほかにも、お話を伺った方々から、「思い出してねえ…」、「よくあそこまで…」というお言葉をいただきました。
 
 過去の事実、事柄だけでなく、その時々に生きた人の心情を精確に描きたかった。それはある程度成功したと思う。だから自分としては満足なのだ。この学校に赴任して、自分が書かなければならないという意識が強かったけれど、その荷物が肩から下ろせたような気がするのだ。
 だから、これから県大会以降の結果についてはあまり関心がないというか、勝ち負けではないという気持ちが強い。観客には、このお話にどれほど共感していただけるか。それだけだ。
 いや、それはもちろん頑張りますけどね。
 4年前に書いた『あの日 あなたが 校舎を燃やした?』と今回の作品とで、この学校の苦難の時代を書くことが出来た。恩返しをしたような気もする。図らずも続編のようになった。4年前に県大会審査員の方からぜひ続編を書くようにと言われたが当時はその気力がなかった。
 
 
 
 
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 上の写真は、17日に部室で行われたFM山形からの取材の様子。ラジオドラマ「真夜中の図書館」に出演した生徒たちに、あらためて、出演してみての感想などについてインタビューされていた。この様子も今月のどこかの土曜日に放送されるそうだ。山形東高の生徒さんもいる。
 
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 上の写真は6月、FM山形での第2話「赤いくつ」収録の様子。
 
 
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 上は、収録に先立って行われたオーディションの様子。うちの部室で、脚本家の高橋幹子さんらの前で台本を読む。この後すぐFM山形に移動して収録。