農地改革は幕藩時代からの連続線上にあった

 今、主に二つのテーマに関して知識を蓄えているのだが、自分の不正確な知識を整理する、あるいは「自分の頭で理解する」ために非常に回り道をしている。そのため頭の中が雑然としていて、ブログにまとめられるような状態ではない。

 何にせよ先人の研究があって、その優れた成果を受け取るだけで「目から鱗」のような感じの連続である。

 

 旧出羽村漆山の半沢久次郎家については、戦後の農地改革によって土地を失い、東京へ移住したとのことなので、『山形県農地改革史』を読んでいるが、これが名著と言うべきで、30年を経て復刊されているのも頷ける。

 この本に拠れば、半沢家は徳川時代中期には本百姓で立附米三百俵程度の小地主であったらしいが、文政2年の検地では田畑二十二町、二百九十七石(一俵四斗としておよそ七百俵)と所有地が倍増している。更に12年後の天保元年には三四,五町、五三七,八石と急拡大した。

 農業の傍ら綿商をしていたのだが、商売で村外に出ては文化的交際によって(二丘の時代だから俳諧によるのだろう)情報を得、紅花の商いに転じて資財を蓄え、これを土地に投資して一代にして立附米三千俵(一反三俵として百町)に増加したという。

 幕末から明治に掛けて質屋を営業し、金融資本の力で更に土地所有を広げ、一時は立附米六千俵に及んだという。(この大地主がいかにして転住を余儀なくされるに至ったのかが研究テーマである。一因は勿論「農地改革」と「財産税」であろう。)

 

 ここで地主が質屋・金貸しを兼業したのは当時一般的なことであった。貨幣経済が浸透した時代には、農民は米を栽培しているだけで現金無しでは生きていけなかった。そこで、酒屋とか醸造業や商業を兼業し資本を持つ地主から借りるほかなかったのだ。だから地主方も初めは利息を稼ぐような意識は薄かったのだろう。(宮沢賢治の実家が質屋で云々を思い出すが、父親もそれほど吝嗇な人間ではなかったのではないか。)

 貨幣経済が深く浸透すると、幕府も石高制から年貢の金納制へとシフトすることを考え始めた。それが維新後の地租改正、租税の金納につながっていった。

 また、幕府は土地の集中について、石高制を維持するべき自作農の数が減ることを懸念し、たびたび集中を排している。しかし領主によってその度合いが違ったので、自作小作の比率が地域毎に違っていた。(山形県は領地が錯綜していて、御料地(天領)もあれば遠くの藩の飛び地もあり、それぞれに支配の仕方が違っていた。漆山は館林藩の飛び地(山形藩主秋元氏が転封された後に残された領地)で漆山陣屋があった。これが戊辰戦争では近隣の藩の中で孤立し、進退に迷うことになるのだが、これは武家のこと。)

 明治維新後、土地の私有、売買を認めつつ、租税の金納化を進めたので、国家財政は安定したが土地の集中が更に進んだ。今に伝わる大地主はこの時期に現れた者が多いようだ。

 以下、独立行政法人経済産業研究所(RIETI)主席研究員山下一仁氏の論に拠る。

 幕府にはだいたい農家一戸あたり1町程度に均そうという意図があったようだが、これは全国の農地面積を農家戸数で割った平均なのだろう。これが戦後農地改革の1町という制限にもつながっているのだ。戦前から農林省は自作農主義で、敗戦を機に松村謙三農林大臣は大胆な土地制度の変革を行おうと日本側から提案したのだという  大臣は土地所有限度1,5町という案を提出した。それを農林省が3町にし、閣議・議会では5町になった。地主と小作人が直接交渉して売り渡すという形だった(第一次農地改革)。

 政権側の土地制度への考え方は、幕藩時代でも議会制の時代でも、同じようであった。柳田國男も小作料金納化を唱えていた(明治時代、地主の納税は金納だが、小作料は依然として米の物納だった。米価が高騰しても小作料は変わらず、地主だけが利益を得ることになる)。要するに経済の進歩と共に変わらざるを得なかったということなのだろう。ただ戦後農地改革は急激に過ぎ、円のハイパーインフレが見込まれていた時期では、地主に大きな犠牲を強いることになるのが分かっていた。同時にGHQは、旧体制下で不平等に蓄えられた資産を、奴隷的農民に公平に分与しようという、あたかもソ連のような政策を行った。「財産税」という厳しい累進課税が行われたことも(皇族、華族の財産にも容赦なかった)同様であり、日本から超富裕層が一掃された。(結果的にはある程度平等公平な社会がつくられ、一億総中流になったと評価できよう。)

 GHQは第一次農地改革の、所有限度5町、地主と小作人の直接交渉では不徹底と見て実施させず、限度は1町、国が直接買収するという形で実施することになった(第二次農地改革)。当時農林省局長だった和田博雄は、戦前に企画院事件で投獄され失脚していたが、この緊急時に大臣になり、改革を実行した。(GHQにしても和田にしても、社会主義的センスが滲んでいる。)

 和田は後に左派社会党の実力者となり、GHQの農地改革担当者だったラデジンスキー博士に対し、「インフレで農地証券が無価値になることは分かっており、財政の負担を軽減するためにあえてスライドさせず、1950年まで据え置いた」(結果無償譲渡と同様になった)と語ったという。

 急進的土地改革の後(それはGHQの面々にしてみても、あたかもフランス革命のようでリベラルすぎるものだったろう)インフレで証券が紙切れになると、旧地主側から私有財産の補償を求め、また憲法違反であるという訴訟が続出した。まったく当然なことだろう。これに対して、政府は昭和40年になって、法律第百二十一号(昭四〇・六・三)「農地被買収者等に対する給付金の支給に関する法律」で100万円を限度に給付金を支給することにした。これ以後訴訟は止んだ。

 戦後多数創出された自作農をまとめ、指導するために農業協同組合が作られたが、これも戦前の農業団体(農会など)を引き継ぐところから始まっているので、さかのぼれば明治時代、江戸時代までつながっているようである。

 

 以上、まだ『県農地改革史』を読み終えていないので概観のみ。地元に残った地主のその後。転住した地主が地域を去った理由とその後が知りたい。