山辺健太郎『日本統治下の朝鮮』批判

 前にも触れたが(朝鮮半島における土地制度の変遷 番外 山辺健太郎『日本統治下の朝鮮』 - 晩鶯余録)、山辺健太郎『日本統治下の朝鮮』(岩波新書776、1971年)の38頁に次のように書いてある。下線は筆者。(2月12日加筆)

 

 「朝鮮人が土地を抵当にして、日本人の金貸しから金を借りて、その金の返済期限を何月何日ときめるとする。この期限はたいてい一〇〇日以内であるが、約束の返済期日時になると時計の針を一時間くらいすすめておく。この奸計を知らない朝鮮人が金を返しにくると、約束の時間はすぎているというので抵当流れにしてしまうという、ちょっと考えられないようなことが行なわれていた。

 買収による土地にしても、それは普通の買い入れではなく、腰にピストルと望遠鏡をもって土地の買い入れに出かけるのである。この方法は日本の官吏がやった方法で、休みの日に望遠鏡をもって丘の上に行き、手ごろの土地を望遠鏡で見つけると、そこに何某所有の標柱を立て四方に縄張りをしておく、もし所有者が届け出をしないときはたいてい標柱を立てた者の所有にしてしまう。

 これらのうそのような話は、みな当時の経験者の話としていまも記録にのこっている。たとえば加藤末郎『韓国農業論』や『朝鮮農会報』の「二十五周年記念号」にでている農業経営者の座談会で、一々引用の煩にたえない。」

 

 まさに「うそのような話」なのだが、この金貸しや官吏の不法行為のはなしはその後の論文にも影響し、広く信じられているもののようである。

 たとえば『大阪における「在日」形成史と階層分化:高齢期にある在日韓国朝鮮人一世の生活史調査より』(2010)CV_20240212_2009000772.pdfなどは主要な参考文献の一つとしてこの山辺健太郎『日本統治下の朝鮮』を挙げている。論文内容は実地調査に基づいた堅実なものと思うが、本文で「併合の翌月朝鮮総督府官制がしかれ、いっさいの政治結社は解散され、御用新聞以外の新聞は廃刊になり、武断政治が行われることになった。裁判によらず犯罪を即決し、日本人にはない答刑を実施したことにも見られるように憲兵による統治であった。そこにおいて日本政府主導のもとに設立された東洋拓殖株式会社は土地を抵当に金を貸し、抵当ながれで土地を取り上げ、日本からの農業移民(1910~26年に 9096戸)を送り込んだ。」と書いている。そこにはいかほどかの先入観が(もう無意識に)潜んでいるように感じる。

 笞刑は朝鮮旧来の刑罰であったろうし、東洋拓殖が土地を抵当に金貸しをしたとしても、東拓が移民を入れる目的で時計をごまかすような不当な取引で土地を奪ったわけでもあるまい。そもそもそんな面倒な方法より直接買い取る方が早い。以下に見るように、土地を日本人に売りたい者が多かったのだから。

 

 さて、そもそも山辺の引用元にはどのように書いてあるのか、読んでみた。

 

 まず、『朝鮮農会報』であるが、それは昭和十年(1935)十一月発行の第九巻第十一号で、冒頭記事「始政二十五周年記念朝鮮農事回顧座談会速記録」(2頁~91頁)が該当する。明治四十年代当時の農業指導の実情について、複数の実体験者が回顧する座談会である。引用に当たって旧字体新字体に変えた。下線は筆者。

 

 辻善一(不二興業社員)の話。(36頁~)

 「私は明治四十三年の三月に朝鮮へ参つたのです。(中略)当時は日韓併合の直後でありますから、例の朝鮮軍隊の解散兵が暴徒化して、日本人と見れば皆殺すといふ騒ぎの頃でありますから、私等も村田銃を持つて居つたものであります。かやうな訳でありますから、私等の棉花試作所には守備兵が六人ほども居つたのですが、内地人は他に五、六人居りました許りで、(中略)こんな物情騒然たる時に棉作を奨励しやうとしたのであります。それには先づ第一に土地を選定しなければならない、百姓に向つてお前のところでは棉を何段歩に植えるか、二段歩か三段歩か、而してどこの畑に作るのか、と言ふ工合に而も一戸一戸戸籍でも調べるやうに廻つたものであります。

 而してもう一つは百姓は陸地棉といふものを寧ろ嫌つて在来棉を作りたがり、陸地棉の種だけを貰つて蒔かないのです。

 そんな工合で、予定の面積が却々出来ないので、第一にかういふことをやつたのであります。それは丁度、一、二、三月に在来棉を全部抜いて終つて在来棉の種を残さないやうにして置いて、而して今度蒔く時に行つて種をやるのであります。(中略)それでも在来棉の面積が沢山ありますから、今度は六月の末か七月に、在来棉を作つてゐるその村に出懸けて行つて、青竹を一本持つて、片端から叩き倒して終ふのです。実に乱暴なことを遣つたものですが、それを可なり長い期間続けたものです、斯くして在来棉はその跡を絶つたのです。」

 

 38頁からの発話者は繁野秀介(朝鮮縄叺協会主事、明治四十一年(1908)赴任当時は農業技術員。全羅道は棉(綿)の重点的栽培地と定められていた)。

 「又適地選定と云ふ事に大変困りました。何故ならば適地を選定して耕作者の氏名を書いた標木を樹てると翌日抜き捨てて了ふのです。之は土地に税金を掛ける為に樹てるのだらうと云ふことを流布して妨害するからで、面長、里長を立会させて、今日の様に面事務所が在る訳でもなく名だけの面長であり、其の人も一緒になって云ふのであるから甚だ始末が悪い。其の当時は郡庁を郡衙と称して居りましたが、郡守に農事の奨励上に付き相談に参りましても仲々容易に応じて呉れない。漸く郡守が承諾して出張と云ふ段取となると、輿に乗り、従者を多数引連れ、郡守の印箱、長柄の煙管を従者に持たして大名行列に供揃へをして出掛けると云ふ状態であり、到着した部落では大変なお祭騒ぎで、指導どころではなかったのです。

 夫れから其の当時の我々技術者は銃及びピストル等を携帯して……最も此の銃器は官給品で在ります……指導奨励に従事したのであります。何故銃器を携帯したかと申しますと、其の当時は。暴徒の横行が盛んでありまして、いつ何時、暴徒の襲撃を受けるか判らないからでした

 暴徒にも色々種類がありまして、其の時の政府に反対して徒賊をなすものを義兵と称へ、又た火賊と申しまして直ちに火を放ち略奪するもの、夫れから各地の鎮営隊の解散兵が暴徒に変化したものが有りました、之れ等の徒が何時我々を襲撃するか判りませんので、今申し上げました通り附近の農民は能く親んで危険があれば直ぐに知らして呉れました、少し遠距離となりますと頗る危険でありますから、昼は終日指導に従事し、夜は農民を集め講話を致し、就寝する時は里長の宅か又たは酒幕で銃を抱へて壁に寄り掛かつた儘、転寝をして暴徒の襲撃を警戒しながら宿泊したのであります。」

  筆者注、「酒幕(チュマク、チュマツ)」は居酒屋兼宿屋のこと。

 

 続いて42頁から兵頭一雄全羅南道、営農)の発言。

 「只今棉のお話中でありますが、実際あの当時まのあたり見てゐました私等としては、ただ感慨に堪えないのであります。当時この全南に開拓のため来て居つた内地人農場の空気は今の満洲武装移民を思ひ出すのであります。私共が土地の買収に出ますには腰にピストルと望遠鏡を下げまして、而して二里、三里の田舎に出掛けて、農場としての有望なる土地がどこにあるかを探しにゆくのですが、その時には、どこの山で内地人が殺されてゐたとか、人質に日本人が何人も拉致されたとか、必らず耳に致したものであります

 ただ今もお話ありましたが、光州の佐久間農場も暴徒に襲撃されたといふことも当時聞いたのでした。これらの暴徒といふのは、韓国の解散兵でありましたが、それ以前、明治四十一年からニ、三年の間、あの全南の山地々帯に身を潜めて各地を荒して居つたのであります。それで私が四十二年の春、農場に入りますと同時にピストルを下げ望遠鏡を肩にして丁度、兵隊同様に軍人精神を横溢させて通訳を伴れて行くのでしたが、或る日のこと向ふの山を見ますると、遥か彼方を朝鮮人がニ、三十人も向ふの山の方に進んで行くのであります。そこで匪賊か暴徒の出現でないかと思ひまして、望遠鏡を片手に通訳に早く随つて来んかといふけれども「私は恐ろしいから!」といふて容易に進まないのであります。そこで通訳をその儘にして行って見ると、暴徒でなく擔軍が並んで仕事をしてゐるのでありました。」

 

 久次米邦蔵(京畿道、果樹栽培)の発言。(48頁からの部分)

 「最初、私は毎日京城から纛島に通勤して居りましたが、只今の本町三丁目まで参りますと、二階建の日本人旅館で大東館といふのがあり、それから東南は悉く草葺の朝鮮家屋許りで実に荒涼たる有様でありました。

 それに光煕門までの道路は狭隘、屈りくねつて羊腸たる上に汚物が流れ出した儘で歩行は困難、臭気紛々と鼻を突き頗る不愉快でした。門外に出ると人家はなく一帯の邱陵は累々たる土饅頭のみで、それから纛島までの路も狭く、往復の人や牛が辛うじてすれ違ふ程で、二輪車の牛車が往十里から東大門を経て鍾路の大路に通つて居るのであります。

 私がこの路を種々な感慨に耽りつつ通勤の三日目でありましたが、光煕門外の小溝の傍らで異様の臭気がするので、不図見ますと、男の生首が顔を上に擲げ込んであるのです。これを見て慄つとした悪印象は未に忘れませんが、これで私も身辺を警戒する心持になり、その後は常に「ピストル」を離さず通勤しました。」

  筆者注、「纛島(トゥクソム、トゥッソム)」は京城東南の漢江氾濫原。

 

 以上、各発言者の言うところによれば、標柱を立てるのは適地選定のためであり、その土地の耕作者(当然朝鮮人)名を書いておくと、農民が課税のための処置と誤解して耕作者自身が抜いてしまうという話である。これを土地調査事業中に日本人官吏が不法に土地私有を行なった実例のように解釈するのは曲解と言うべきではなかろうか。これは既に誰かが指摘していることなのかもしれないが、自分は今回確認したところである。

 

 日本人がピストルを持つのは自衛のためである。田舎の土地を見に行く時だけでなく、首都での通勤にすら必要な時期があったのだ。第二次日韓協約後の、義兵闘争が最も盛んだった当時の状況を考えれば当然の対応であったと言わざるを得ない。襲撃を受けた農場の悲惨な様子なども話されている。

 

 また山辺の同書第1章22頁に、朝鮮総督府の警察制度に関して「棉花栽培をやらせるときに、「郡庁に郡守を訪ねて御願致し、栽培者を物色して呼び出し、必ず播種するよう厳重に申渡して貰ったのです。ところが頑固でなかなか応じない。そこで郡守はこれに笞刑を命じ、始めは軽く打たせておりましたが、依然として承諾しないので、だんだんと強く打たせ二〇回臀部を打たせ大部局部が赤く腫れ上がった頃になりますと、いよいよ兜を脱いで播種することを承諾しました」。これは朝鮮農会の座談会で、実見者でありまた棉花栽培を朝鮮人にやらせた千葉喜千弥の談話であるからあきれるほかはない。」とある。

 あたかも総督府の警察が、棉栽培を受け入れない朝鮮人農夫に対して残酷な刑罰を行なって強制したかのように読めるが、実際の座談会での千葉喜千彌(殖銀春川支店長)の発言(44~45頁)は次のようである。

 

 「先程来、陸地棉栽培奨励当時のお話がありましたが、私も渡鮮早々、木浦に於て臨時棉花栽培所長の佐藤政次郎さんの御指導に依り、明治三十九年より四十二年三月まで其仕事に携はりましたので、如何に当初に於て苦心したかを御話致します。

 全南珍島は古来難治の地方でありまして、とても陸地綿栽培など承知しませんので、或時佐藤所長の命を受け、郡庁に郡守を訪ねて御願致し栽培者を物色し呼出し、必ず播種するやう厳重に申渡して貰つたのです。処が頑固で中々応じない。そこで郡守は之に笞刑を命じ、初めは軽く打たせて居りましたが、依然として承諾しないので段々と強く打たせ、二十回臀部を打たせ大分局部が赤く腫れ上つた頃になりますと、愈兜を脱いで播種することを承知しました。今日から考えて想像の出来ない事柄で、随分無理もありましたが、当時の民度として仕方なかったのです。

 何しろ当時の郡守は生殺与奪一切の権限を掌握して居りましたので、郡守の命令には百姓達は震ひ上つたものです。」

 

 当時ほぼ略奪農法が主だった朝鮮に対し、江戸時代を通じて進化した日本式の農法や作物を急いで移植するため、日本の技師達は過激なまでの方法をとった。アメリカからの棉種を播かせるために、在来種の棉畑に行きそれを叩き折って根絶させたりもした。稲についても同様であったが、在来種は地方によって数え切れないほどあり、それらが混在して収穫されるため商品価値がつかなかったのだ(米については赤米と砂、石の混入や乾燥不十分が最も大きな問題だったが)。農民を従わせるための最後の手段として、郡守の強権に頼ったのだが、それは朝鮮式の酷刑を科することになってしまった。併合以前のことである。

 たとえてみれば、幕末に来日した欧米人が日本の刑罰(敲き。公開で五十敲き、百敲きがある)を見た時に感じただろう残酷さと似ているだろうか(欧米にしてもギロチンなどがあり、人の国を言えた義理ではないが)。併合直後には残されたこの刑罰も、住所不定とか罰金の払えない者に対する選択刑で、猶予、免除も即決でできた。罪人の健康を医者に検査させたりする施行規則もあった。しかしそんな酷刑は大正九年(1920)には廃止され、「今日から考えて想像の出来ない事柄」になった。

 

 望遠鏡で云々については、『朝鮮農業発達史 発達編』(友邦協会1960)24頁に、ある農場経営者の回顧談がある。旧字体新字体に変えた。下線は筆者。

 「当時群山港に管理署があり、外国人はこれを中心に、十韓里以内の土地を売買することが出来たのみで、それ以外の土地の売買には、無論証明がある訳がなく、不安心なものではあつたけれども、買収しておけば必ず成功すべしと信じて土地の買収を行い、時としては、山上から眺めて、これを買収したことすらあつた。(中略)国法を犯しての行為であるから、官公吏の目を遁れるのに相当苦心した。が朝鮮人の方では、日本人は土地を買収してはおるが、結局は手放すに至るものだ、と思つておつたとのことである。」

 これは座談会が語る時期よりもさらに前のことであるが、外国人が開港地で行動範囲の制限を受けていた頃に、山の上から望見して土地を買収したという逸話である。この話と前記のピストル・望遠鏡・標柱の逸話が混ざって最初に引用した「うそのような話」が出来たのではないかとも考えられる

 

 もう一つの出典例である加藤末郎『韓国望業論』明治37年(1904)発行。朝鮮の地理、気象、作物などについて細かく調査した、まさに農業論である。目を通したが、日本人が武装して不法な土地取得に及ぶような記述は見つけることができなかった。自分が見過ごしているだけなのか? 山辺が代表的な文献として挙げたこの二つに見当たらないとすれば、いったいどこから「一々引用の煩にたえない」ほどの例を読み取ったのかわからないのである。これでは断片から組み立てた妄想と言われても仕方がないのではないか。引用元の著者加藤末郎や座談会発言者に対しても失礼ではないか。

 

 第十六章の「韓国耕地ノ売買」171頁を引用する。旧字体新字体に変えた。下線は筆者。

 「韓国農民ハ 一ノ土地ニ固着セザルコト我農家ト異ナレリ 金銭ニ窮スレバ容易ニ土地ヲ売却シ 祖先伝来ノ土地ヲ有スルモノノ如キハ 極メテ寥々タリ 故ニ土地ノ放買ハ盛ニ行ハルゝノ実況ナリ

 売買ノ方法ハ 売手ヨリ新旧文記ヲ買主ニ渡スヲ以テ 一切ノ権利一方ヨリ他方ニ移リシ者ニシテ 官衙ニハ何ノ届出ヲ要セズ 新旧文記ニハ何斗落若クハ何日耕ノ田畑ヲ 価何程ヲ以テ某ヨリ某ニ売渡スコト確実ナリト云フ意ヲ記シ 人ヲ選ビ口銭ヲ与ヘテ保證人ニ立テ連名セシメタルモノニシテ 之レ乃チ売渡證ナリ 如斯別ニ官衙ニ届出デザルヲ以テ租税徴収ノトキハ其所有者転移ノ為メ 大ニ不都合ヲ感ズル事アリト云フ」

 

 第十九章「韓国農業ノ振興ト本邦人ノ農業経営」

  一、本邦人ノ土地所有及内地ノ居住(246頁~)

 「邦人ノ韓国農業経営ニ対シ第一ニ念頭ニ浮ブベキ疑問ハ土地ノ所有ニアリ間行里程内乃チ居留地ヲ地点トセル我里程一里以内ニ在リテハ英韓条約第四欵ニ「英国人租界以外ニ於テ土地家屋ヲ賃借若クハ購買スルニハ 租界ヲ離ルコト韓国里程十里ヲ逾ユルヲ得ズ」ト云ヘルニ均霑シ 外人モ土地ヲ所有スルコトヲ得ルヲ以テ 売買ニ際シ其地ノ韓国監理(開港場ノ地方官)ニ地契(地券状)ヲ請求スルトキハ 地券一枚ニ付(二三段歩ニテ一枚ナルアリ五六段歩ニテ一枚ナルアリ一定セズ)二円ノ手数料ヲ要ス コレヲ仕払フトキハ茲ニ全ク所有権ノ移転ヲ確認セラルルヲ以テ 此ノ地域ノ範囲ニ於ケル外人ノ韓国土地ノ買収ハ 既ニ久シキ以前ニ於テ実際耕地ノ売買行ハレ居ルハ事実ニ於テ之ヲ徴スルコトヲ得 夫ノ欧米人ノ幾年ノ久シキ以前ヨリ内地ニ居城ヲ構ヘ 耕地ヲ買収シ 少許ナガラ自ラ耕作ニ従事セル如キ 幾度カ韓国官吏ヨリ撤退ヲ請求スルモ 行ハレタル事実ナク 請求スル官吏モ 中央政府ノ命令ニ依リ行ハレザルヲ知リナガラ 儀式的ニ退去ヲ請求シ 之ヲ受クルモノ亦儀式的ニ受クルノミ 双方トモ既ニ儀式ナリ 此式ヲ了レバ依然トシテ旧ノ如シ 殊ニ近年ハ間行里程以外ニ本邦人ノ土地ヲ所有シ家屋ヲ構ヘ定住スルモノ益多キヲ加ヘタリ 一二ノ例ヲ挙グレバ 釜山居留地ハ条約上、海ヲ境界トスル明文アルニ拘ハラズ 遂ニ其対岸タル絶影島ノ平地ニ本邦人ノ居住スルモノ甚ダ多ク 土地ノ如キ海岸ニ沿ヒタル所ハ一坪七八円ヲ以テ売買セラレ 今ハ純然タル居留地ヲ為セリ」

  一、耕地売買ノ状況(249頁~)

 「而シテ売買ノ実際ノ状況ハ 何レノ地方モ本邦人ヨリ進ンデ購入ノ交渉ヲナスニアラズ 本邦人ニシテ土地ヲ購買スルノ意志アルヲ示ストキハ 村落ノ代表者ハ耕地ヲ売ラントスルモノヲ代表シ 小ハ何十斗落ヨリ大ハ何千斗落ヲ売渡サンガ為ニ 二三里若クハ五六里ノ遠方ヨリ邦人所在地ニ来リ 買人ヲ求ムルナリ 本邦人ヨリ自ラ進ンデ此地ヲ求メタキ故ニ譲与セヨト云フガ如キ方法ニアラズ  而シテ売買譲与ハ極メテ簡単ニシテ 相互ノ交渉終レバ地券タル旧文記新文記共ニ買主ニ渡セバ其手続ヲ了スルモノナリ 最モ此以前買主ハ土地ノ面積ヲ実測シ所有者ノ真偽ヲ確メ 過誤ナキ為メ自ラ充分ノ手続ヲ尽スヲ要スルハ勿論ナリ 従来耕地ヲ買収シタル人ノ経歴談ニ依レハ 韓人ヨリ直接ニ買収シテ詐偽ニ罹リタルコトナキモ 却テ本邦人間ノ転売買ハ頗ル危険ナリト称セリ 此頗ル味フベキノ経験ニアラズヤ」

 「韓農民ノ朴訥ナル一旦売却シタルモノニ対シ苦情ヲ云々スルガ如キ実例ナキガ如シ 而シテ韓人ハ好ンデ本邦人ニ売却スルノ傾向アリ 且韓人間相互ノ売買ヨリモ稍低廉ナリ 此レ韓人間売買ノ慣習トシテ代金ハ一時ニ之ヲ支払ハズシテ三回位ニ分チ払フヲ常法トスル 然ルニ本邦人ハ凡テ直ニ全額ヲ支払ヲ以テ 金利ノ不廉ナル韓国ニアリテハ勢韓人間ノ売買ハ本邦人ニ売却スルヨリ高キヲ致スハ怪ムニ足ラズ 既ニ買収シタル土地ニハ購入者ノ氏名ヲ明記シタル杭ヲ建テ以テ所有ノ移転ヲ明ニスルノ方法多ク行ハル

 如斯クシテ得タル土地ノ耕作ニ関シテハ直ニ本邦農民ヲ移スモ不可ナシト雖 斯クテハ尠カラザル経費ヲ要スルヲ以テ 幸ニ韓人ノ多クハ売却土地ノ小作ヲ希望スルヲ以テ一時其ノ希望ニ委シ 漸次本邦農民ヲ移スノ方法ヲ採ルヲ可トセン」

 

 外国人の土地買収について、許可された範囲外でも買収が公然と行われていたことがわかる。また、土地の管理も、売買が台帳に記録されるようなものではなかった。

 

 

 朝鮮農民は朝鮮の郡衙、政府を嫌う

 朝鮮の農民が何故に裁判を嫌ったかについては前記座談会速記録で繁野秀介が次のように話している。(39頁~)

 「初め農家に陸地棉種子、「ポプラ」の挿穂、桑の苗を無償配布を致しました。然し百姓は棉の種子を飼牛に食はせ、「ポプラ」の挿穂及桑苗は温突に燃して終ふと云ふ始末で、仲々指導に従はないので困りました。

 でも其の内には附近の農民にて「マラリヤ」で苦しんで居る者が癒して呉れと云つて来るので、所員の為に買求めてある富山の薬袋から「カゼピリン」などを与へると直ぐ癒おる。腹痛の時には重曹を与へ、薬の無き時は仕方ありませんから砂糖を服用させますが之れで不思議に癒る。又た鎌で手を切たものには朝鮮焼酎で洗つて繃帯してやると云ふ様に親切に労つて遣つたものです。又た農民間の土地争を持て来る。……それは少し権力のある者が他人の土地を冒耕する。又た地主から種籾を借りて収穫時に返却しない為に直ぐ小作地を取り上ぐると云ふ様なのが主で……百姓達が之を当時の郡守に訴へると、郡庁の使丁から吏蜀、それから郡守と云ふ風に取調べに却々日数が掛る。其の上多大なる金が掛るので普通の者には容易に出訴することが出来ないのです。それを吾々内地人の居る役所、つまり棉採種事務所に持て来る。そこで公平に裁いてやり、又た現場に行つて調停すると云ふ様な訳にして遣つたものですから、農民も喜んで次第に親んで来て我々の指導に能く従ふ様に成つて参りました。」

 

 前記『朝鮮農会報』座談会の久次米邦蔵発言も見てみよう。併合以前の話である。

 「用地の買収に当つて、夫れは勿論民有地の購入でありますが、当時この辺りの土地は一反歩価格十四、五円から極上等で二十円そこそこであつたのです。然るに附近の鮮人を呼び出して買収の相談をすると、反八十円から一文も引かぬと態度頗る強硬なものです。私が如何に説明しても頑として応じませんから、其の経過を農商工部の局長……勿論鮮人でした……に話すと「それは反八十円程度でないと可愛いそうだ」と言はれるのです。このことを今度は統監府の中村(彦)技師に話すと、不当な値段だとは申しましたものゝ何分韓国政府の遣ること故、適当に取計ふより仕方ないと極りました。

 その直後に例の某局長が、日本観察旅行に出発する前日、突然来場して土地の売渡の人達を集め「売つた地代は自分が預つて居るが、急に日本に出張するので忙しいから帰つてから渡すから待つて居れ」と話したと通訳から聞きました。然るに部落民は翌日になると出て来て代金の支払ひを迫るので、私も少々変だと感づき再度支部に出頭し、会計課長に逢つて委曲を話した処が「それは不都合だ、然し一度、八十円と極めてある以上はせめて七十円程度にして局長の不在中に渡して了へ」と言ふので直ぐに現金を持って帰り、翌日鮮人を呼び出し一坪何銭何厘まで計算して彼等の面前に金を並べたのです。

 処が喜ぶと思ひの外、「約束が違ふ。そんな大金は不要ぬ」と言つて受取らぬので、約束とは何かと尋ねますと、一反歩の地代は実は二十円であると言ひますから、私が最初に二十円位いが至当だと言つた時、お前達は八十円でないと売らぬ、と頑張つたから自分が種々心配して七十円以上にして遣つたのではないか、文句を言はずに取つて帰れ、と怒鳴つて諭した処が鮮人等は「八十円で売つても自分達は二十円貰ふ丈で、残り六十円は高等官三人で分配する筈だ」と初めて真相を打明けたのには唖然とした次第です。

 然し鮮人達は後難を恐れてか、躊躇して金を受取らうとはしませんから、種々と諭し受取つて差支へない訳を話して遣ると、忽ち喜色満面に溢れ「日本の官吏は人民の金を取らぬか」と今度は奇問を発し、私が日本の官吏は人民の生命財産を保護するのが役目であると説明すると、心から「実に善政だ!」と感嘆して引揚げて行きました。」

 

 当時の朝鮮の官吏は「人民の金を奪う」のが当然のことであったとわかる。