1945年8月15日以降の韓国における農地改革(朝鮮における土地制度の変遷)その21

 1945(昭和20)年8月の状況

 これまで朝鮮の土地制度について、日本統治時代から見てきた。いわゆる「土地の収奪」については、総督府の「土地調査」をもって文盲の農民から耕地を取り上げたというような言説は不正確であると言える。旧帝室所有地と荒蕪地を国有化し、その土地を耕作者(小作人)に対して有償分配している。土地調査は地主に対する課税を確定させるために必要なものだった。ただ、道路や鉄道、軍関係の土地収用令は強引さが見られ、恨みを買っただろう。

 戦時中は朝鮮にはほとんど空襲などの戦災がなく、内地人以外は末期まで徴兵されることもなく、本土に比べて平穏であった。

 戦後の部分について、あらためて資料を読み始めているが、去年プリントアウトした資料をもう忘れていて、重複して印刷したりしている。以下、土地、農地制度に入る前に、日本国朝鮮の大転換に直面した、当時の人達の状況を見てみたい。

 

 敗戦の受け止めと敗戦直後の治安

 1945(昭和20)年8月9日(金)にソ連が対日宣戦布告。満州に侵攻を開始する。日本は広島に続いて同日昼、長崎にも核攻撃を受け、万事休してポツダム宣言を受諾することになる。以下、ブルース・カミングスの『朝鮮戦争の起源』によると、朝鮮京城では同日から13日にかけて数回、日本人4人が宋鎮禹と会見。朝鮮の独立に備え、秩序を維持するための「行政委員会」のごときものを組織してくれないかと持ちかける。しかし宋は引き受けなかった。宋鎮禹は裕福な旧家の出で、明治大学で法律を学び、東亜日報社長となった人物である。

 日本はやむなく交渉相手を呂運亨に換え、15日早朝、政務総監遠藤柳作との会談が持たれる。呂は敗戦後の治安維持についての提案を受け入れるにあたり、①政治犯、経済班の即刻釈放、②3ヶ月間の食糧補給の保障、③治安維持と独立準備のための朝鮮人の活動に鑑賞しないこと、④学生の訓練と青年の組織に干渉しないこと、⑤労働者と農民を組織し訓練することに干渉しないことの5条件を飲ませた。

 呂はただちに安在鴻ら指導的立場の人物たちと相談し、「建国準備委員会(建準)」を組織する決定を行った。呂運亨は穏健左派の独立運動家。高麗共産党に入党したが、投獄された後は言論活動で名声を博していた(文京洙『新・韓国現代史』2015)。

 呂運亨は、日本の敗戦を見越して10日には地下組織「朝鮮建国同盟」を結成。11日には連合国軍に提出すべき四項目の合意書を作成している。日本人と宋鎮禹との交渉についても知ることがあっただろう。

 8月中に145の建国準備委員会支部が作られた。

 

 8月15日水曜日、朝鮮にいた一般内地人にとって玉音放送(不意の敗戦)は驚きでしかなかった。総督府官房総務部長だった山名酒喜男氏の手記『朝鮮総督府終政の記録(終戦前後に於ける朝鮮事情概要)』(1945)によれば次のような感想であった。

 「然れども日本人は従来、官の施策に順応して朝鮮を以て恰も、九州と呼び、四国と称うるが如く、又、朝鮮人皇民化すべく各方面とも努力し来りたるものにして此度の急変下、朝鮮が外國と為り、朝鮮人が外國人と為ることは夢想だにもせざりし處なるを以って、朝鮮人の八月十六日以降に於ける示威運動、接収行為、保安隊の蠢動等は痛く日本人の神経を刺戟せり。」

 「八月十五日、大詔煥発せらるるや内鮮人共に極度の衝撃を蒙り、一時は呆然たるものありしが、日本人側は一切を挙げて官の措置に俟つの態度を以って、冷静に推移せるが、朝鮮人側に於ては、停戦に依るポツダム共同宣言の受諾を見るときは朝鮮は直ちに日本より解放せられて独立するものなりと誤解し、終戦平和到来の安堵と朝鮮独立歓喜の情に興奮し、これに一部不穏分子の巧妙なる煽動あり、八月十六日、京城府内の目抜きの場所を中心として多衆民の街頭示威運動の展開せらるるに及べり。/即ち、米國旗と旧韓國旗の併掲の下、「朝鮮独立万才、連合軍歓迎」を呼号して多衆示威運動と為り、公的企業体の乗用車及びトラック等も運転手の朝鮮人なりしものはこの示威運動に参加し、恰も公的企業体自体、行列行進に参加せるが如き観を呈せり。」

 

 忠清北道警察部長だった坪井幸生氏の『ある朝鮮総督府警察官僚の回想』(2004)によれば、

 「総督府の政治情報の主管課は保安課であった。隣接の図書課には同期の村上正二事務官がいた。彼から八月十四日の夜に電話があり、明日の正午に終戦詔勅が出されるということを知らせてきた。」

 「八月十五日の早朝、単騎で(中略)知事官舎に行った。知事は鄭僑源(創氏名は烏川僑源)という高齢の朝鮮人であった。彼は、下級役人から叩き上げて知事になった老練の苦労人であった。これから起きるであろうことの予測を聞いて大変驚いたが、すぐにこれに対応する覚悟を固めたらしく、道当局としての処方策について真剣に考えるふうであった。」

 「私は知事と相談してつぎの事項を決めた。/第一に、治安維持には警察が全力で当たり、軍隊や憲兵は可能な限り出動を見合わせてもらうこと。大正八(1919)年の「万歳騒擾」のさいに鄭知事が体験したところによれば、軍隊や憲兵が出動したところは、例外なくその結果が悪かった。その轍を踏んではならないというのであった。」

 「(玉音放送後)知事は、あらためて全庁員を整列させて、声涙ともに下る悲壮な訓示をし、「こんなことになって残念だ。日本人と朝鮮人は助け合って、非常事態に対処しなければならぬ」と諭した。」

 

 江原道庁鉱工部鉱工課主任だった西川清氏の『朝鮮総督府官吏最後の証言』(2014)によれば、

 「地下で活動する人達には外国の情報が入ったのかも知れません。玉音放送の後、お昼過ぎには街で朝鮮の旗を振っていましたので随分と準備が早いなと不思議に思っていました。」

 「終戦前夜まで日本人と朝鮮人は上手く付き合ってきました。何故、この終戦を機にして朝鮮人が変わってしまったのかと思うと、やはり朝鮮人の中には内心、独立したいという希望があったからだと思います。/その思いがあったので朝鮮は日本と戦争はしていないけれども、日本の敗戦で一夜にして、「朝鮮は日本に勝った」とか「もう日本と同等だ」という気分になったのだと思います。/朝鮮は今まで日本と併合し、「これで朝鮮も日本と同じ一等国となった」と思っていたのに、今はその日本が戦争に負けて落ちぶれてしまったのです。朝鮮人は日本に対する反発というより、朝鮮人が伝統的に持たざるを得なかった事大主義の発想で、「もう戦争に負けた日本とは一緒にはやっていけない」と思い、すぐに考えを変えたのだと思います。/自分たちがこれから生き残る道として、朝鮮は独立して立派になってみせると考えたのだと思います。」

 

 これらの感想は日本人側からのもので、朝鮮人自身にとってはやはり「異民族支配からの解放」「独立回復」という意味での歓喜の方が強かっただろう。

 しかしそこから、「日帝の蛮行」を断罪する立場へと一変するのには、やはり飛躍があるように感じる。

 

 日本人にとってもっとも緊急な事は治安の維持であった。当時の日本人の心中には、尼港事件、霧社事件通州事件をはじめ、外地での日本人虐殺という恐ろしい事件の記憶があっただろうから無理もない。

 16日には京城市内でデモがあったが、日本側は規制しなかった。暴発を怖れ、ガス抜きのために黙認したのだ。また政治犯、経済犯が釈放された。その人数は1万6千人(京城だけで1万人)という。彼等は全国に散っていった。この時、

 「戦時中の政治犯及び経済事犯の囚人を終戦に伴い之を釋放するも差支えなしとの首脳者の許容ありしを、行刑当局の誤解乃至無力に依り、一般的囚人の騒擾あるや、之をも輕挙に釈放し、又は脱走せらるるの不祥事を惹起し、憂慮すべき事態に瀕せるを以って、軍隊の出動配置を求むると共に、軍と協議の上政治運動取締要領を策定し、軍官ともに、毅然たる態度を表明し、警察の取締活動を更に積極的ならしめたる結果、各地方の治安も漸次平静を回復するを得たり。」(『朝鮮総督府終政の記録』)

 

 夜には平壌神社が放火された。日本は朝鮮内各神社に昇霊式を行い、京城神宮は解体焼却する方針を決定した。

 16日から25日までの10日間に発生した朝鮮内の事故事件統計は、咸鏡南北道がソ連の侵攻により通信途絶で不明の他は下の如くであった。(『朝鮮総督府終政の記録』による)

  警察官署に対する襲撃、占據、接収、要求等     149件

  神祠、奉安殿に対する放火、破壊          136 

  朝鮮人警察官に対する暴行、脅迫、掠奪       111

  朝鮮人官公吏に対する暴行、脅迫、掠奪       109 

  郡、面其の他一般行政官庁に対する襲撃、占據、破壊  86

  内地人に対する暴行、掠奪、脅迫、其の他       80 

  内地人警察官に対する暴行、脅迫、掠奪等       66

  朝鮮人に対する暴行、掠奪、脅迫、其の他       60

 

  殺害(被害) 日本人  6件 警察官、学校長とその家族、無職

         朝鮮人 21  警察官、面職員と家族、訓導治安維持会員  

         支那人  1

  自殺     日本人 25件 警察官6、学校長3、訓導1、郵便局長1らと家族

  傷害     日本人  8件 警察官6、学校長、公吏

         朝鮮人 67  警察官40、面職員22、郡守、區長、保安隊員

  殴打・暴行  日本人 21件 警察官12、学校長4、邑長、医師、其の他

         朝鮮人 118  警察官67、面職員42、警防団員、看守、教員、

                運転手、其の他

 

 これらの被害状況から、民衆の鬱憤がどこに向かって吐出されたかは明確である。

 「朝鮮人の暴行は多くは朝鮮人たると日本人たるとを問わず、警察及び郡、面の官公吏を対象とせる個人的怨恨関係に依るものにして、戦時中民衆の最も苦痛としたる労務及び食糧の供出を繞る官の施策に対する反動と見得べく、この間に於て日鮮間の民族的抗争事件は無きことを察し得べし。」(『朝鮮総督府終政の記録』)

 

 総督府からの治安維持の要請を受けた呂運亨は、16日「建国青年治安隊」を結成。本部は京城の豊文女子中学校で、その後162の支部が各地に組織された。

 17日には除隊兵士等により「朝鮮国軍準備隊」が結成され、8月末には正式に決定された。6万人といわれる。

 こういった建準の動きに対して総督府側は、「元来の任務から逸脱したのは重大な過ち」と非難し、敵対視するようになった。

 「朝鮮建國の秩序ある進捗翼賛の為、鮮内治安の自治的協力機関として、呂運亨一派の活動を許容せる處、彼等は、「建国準備委員会」なる団体名称の下、其の機関活動の末端に於いて、往々、必要以上の権力行使を民衆に加え、殊に日本人に対し、威力を加うる事例の発生を見るや、一般日本人は恐怖心を湧起せしめ、結局、朝鮮人の徒党的暴力には黙従するを以って身体安全上得策とすべしとの氣運を発生せり。」(『朝鮮総督府終政の記録』)

 

 朝鮮人の保守派の中には、建準に対し治安維持にとどめるよう説得に来る者もいた。

 しかし、28日、建準は宣言文を発表。建準は挙国政府が樹立されるまでの暫定的過渡組織であって、挙国政府は各地の人民代表による全国会議で選出された人民委員会によって樹立されるとした。

 

 ソ連軍の侵攻と北朝鮮の状況

 一方、北朝鮮では、9日0時半より、咸鏡北道の国境近く雄基から羅津にかけて終日ソ連軍による空襲(爆撃、機銃掃射)があり、10日には羅津約2万人の一般人に退去命令が出された。越境侵攻したソ連軍は、15日までに雄基、羅津、清津と海岸沿いの港を南下、占領した。避難民は18日までに満州国境沿いの茂山に到着したが、集積していた物資を失い、食糧事情は厳しかった。

 21日、ソ連軍は元山港に上陸、日本軍を武装解除した。憲兵、警察官も武装解除され、それらの武器は民間の私設保安隊に引き渡された。

 平安南道ではチョ(曹の1画少ない字)晩植が15日に治安維持会を結成、17日には(呂運亨に応じて)平安南道建国準備委員会を開いた。しかし、同時に朝鮮共産党平南地区委員会も作られている。チョ晩植は五山学校の校長をしたキリスト教徒で、20年代末に新幹会という共産主義者民族主義者の統一戦線組織の平壌支会会長をつとめた。(和田春樹『北朝鮮現代史』2012)

 24日、ソ連軍司令官チスチャコフが咸興に飛来。道知事岸勇一と面会し、総督府の下部組織に行政を担当させる方針を明らかにした。しかし、共産党代表と建国準備委員会代表から、行政を委せるよう要請され承諾する

 「行政権の接収については、咸南、平南北、黄海道等、何れも八月二十五日より二十七日迠の間に於いて、当初はソ連軍将校より、「道行政は現在の道庁の機構に依り運営すべく、治安に付ては特に責任を負荷す」との申渡しを受け、其の積りにて行政を継続せんとしありたるに係らず、翌日又は二、三日後には行政権を一切人民委員会に引継ぐべき旨の指示に接し、且又、道知事以下内地人幹部、殊に警察官に在りては相当下級者に至る迠何等の理由なく抑留拘束せられ、勿論取調等の措置も無く今日に至る迠其の不法なる拘留を継続しあるは奇怪至極にして被害者本人は勿論、其の家族に就いても其の消息を明に知ることを得ず。」(『朝鮮総督府終政の記録』)

 24日、ソ連軍は平壌に至り、布告文を出した。

 「朝鮮人民よ。ソ連軍隊と同盟国軍は、朝鮮から日本略奪者を駆逐した。朝鮮は自由国になった。

 29日には、チョ晩植平安南道建国準備委員会と玄俊赫平安南道共産党委員会が対等合同して「平安南道人民政治委員会」を作った。