ゴジラ -1.0

 『ゴジラ-1.0』を4Dで二回観た。昭和29年に初登場したゴジラは、その後続編が多く作られ、日本人ほぼ全員に世代を問わず知られる存在だろう。

 映画作品の中ではゴジラのいる世界が普通で、登場人物が「あ、ゴジラだ。」と既知のものとして呼ぶような作品もあったかと思う。しかし、昭和20年から22年に設定されたこの作品ではもちろん誰も知らない。(まあ『シン・ゴジラ』でも未知の存在という設定ではあったが)

 一方観客にとっては全然承知のもので、背景音楽さえ聞きなじんだものでワクワクするのである。自分も小学生のころから何本も見ていて、懐かしい。

    

 敗戦後の日本は国家主権をGHQにおさえられ、武装解除されていた。が、この作品にはジープに乗った米軍兵士もMPも出てこない。『シン・ゴジラ』のように米軍の最新兵器が登場して戦うわけでもない。都会の焼け跡から傷を抱えながら復興に向かって営々と働く人々しか登場しない。戦うのは武装解除された日本人で、使うのは辛うじて残されていた武器である。意図的にそうしたのだろう。つまり、日本人としての連続性を表現するため、占領を描かなかったのではないか。

 先尾翼局地戦闘機震電」が実戦可能になっていてゴジラと戦うという設定はマニアにはうれしいところ。

 

 前半、日本近海の機雷掃海任務にあたる木造掃海艇が海上ゴジラと戦う。考えてみると、ゴジラとの洋上戦闘場面はあまり記憶にない。戦後の掃海作戦は小説『機雷』などを読むとよい。映画では機雷を咥えさせ、射撃して爆破させるが、これは映画『ジョーズ』のクライマックス場面そのままだった。

 CGの背景やセット、小道具は時代色があり、幻燈スライドの文字もいい感じに戦前風だった。電報を人が届けに来るなんて経験はもうほとんどの人が知らないだろう。

 ただ、逃げ惑う人々のエキストラの中に肥満気味の人が見えた気がしたが、昭和22年に肥満はちょっとどうかと思った。まあ絶無とは言えないだろうが。

 

 

 海神(わだつみ)作戦でようやくゴジラを沈めた時、男たちは敬礼する。その意味はこれまでゴジラの犠牲になった人々に捧げるものだったのだろうが、自分にはゴジラそのものに対して捧げられたもののような気がした。強敵に対する敬意?

 更に言えば、ゴジラを倒すことによって「本当に日本の戦争が終わった」、決別したような気がしたのだ。ゴジラは「戦争」の象徴なのかもしれない、それに憑りつかれた戦前という時代への決別、その中で斃れた名もなき多くの人々への敬礼であったような気がしたのだった。

 

 椅子がガンガン動くし、水が吹き掛かるのが面白かった。