『駈込み訴へ』

 太宰治の『駈込み訴へ』について少し考えたこと。

 高校演劇でも題材にされてきた作品だ。一人芝居でもできる、ということもあるのだろう。献身が認められない不満と屈辱、嫉妬から裏切りへ、可愛さ余って憎さが百倍、その内心の吐露が面白いからでもあるだろう。

 昨年末、高校演劇東北大会で上演された『駈込み訴え』(上演、青森中央高校演劇部 作、畑澤聖悟)を観たので触発されたところがある。畑澤氏の指導による上演は周知のとおり他校のレベルを超えているので、その素晴らしさは、いまさらここに書くまでもない。ただ、その原作からの脚色に関して、少し自分なりに思ったことを書いてみたい。だから作品批評でもない。独り言である。

 この作品は今夏、岐阜での全国大会で上演されるのでぜひ観てください。会場は、東海道新幹線岐阜羽島駅から少し離れた不二羽島文化センターにて、7月31日(水)から8月2日(金)までの予定で開催されます。

 

 舞台は某高校演劇部の部室、三年生部員は二人しかいない。二年一年が少しずついる。三年生の一人が演出で主役。もう一人が演出助手で、これがマネージャー役もこなしている、裏方全般を一人で支えている。近々大会で『駈込み訴え』を上演しようと稽古しているのだが、主役はイエス。これが暴君的な先輩で下級生に厳しい。自分が演出して自分で主役をやるのだからまあ独裁者である。それが「いじめ」となって、部を辞めていく子もいる。先生方のなかでも噂になるくらいである。で、担任で生徒部の先生が、演出助手の生徒から内部情報を聞き出そうとして、進学の「学校推薦」を餌に近寄る。ここで演出助手はambivalentな状況に悩む。自分の利益のために一年生から部活動を共にしてきた演出を裏切るのか。

 ここがイエスイスカリオテのユダの関係に重ねられているのだ。太宰の原作の言葉が台詞となって流れてくる。太宰が口述筆記させたというくらいで、まさに人の口から流れ出る言葉である。部活動の描写と新約聖書のエピソードが非常にうまく重ねられている。傲慢な演出(イエス)に対しておどおどしながらも献身的に従う演出助手(ユダ)。

 

 ……感想で終わりそうだが、一つだけ、「無理してるんじゃない?」という台詞についていろいろ考えたのでそれを書いてみたい。

 二回出てくるが、最初は演出助手が演出に向かって言う。部活動に全てを賭けている友人を気遣いつつ、部内の雰囲気を何とかしたいという思いも込められている。二回目は幕切れ。裏切った演出助手の目の前に十字架に架けられた体の演出が立ち、演出助手に対して「無理してんじゃね?」と言うのだ。この二回目の台詞の意味を考えてみた。

 演出助手が「無理している」のを演出は感じ取っていた。その「無理」とは何か? 部活動の細々とした雑用を一手に引き受け、勉強にも差支えている状況を言うのか。あるいは、部内のいじめについて、自ら撮影した映像を証拠に先生に訴え出た裏切り行為に対して言っているのか。

 そう。ユダ(演出助手)は無理をした。無理を重ねたために状況は悪化し、ついに破綻(一面では成功)した。

 部活動では、演出の理不尽なわがままを通すのに反対せず、その実現に奔走し、また演出の思うようにできないと暴力的なまでの演技指導をすることを内々に収めようとする。勉強は思うに任せないが、担任から推薦の話を聞いて一筋の道を見出していた。ところが推薦希望者がもう一人現れた。なんとしても進路を確定したいではないか。しかしそのためには二年間以上ともに歩んできた友人を売り渡さなければならない。

 最初から、出来ない事は出来ないし、駄目なものは駄目というべきだったのだ。八方美人的に丸く収めようなどと無理するから大事になるのだ。担任には、そんな餌で釣るようなことはしないでくださいと言うべきだったのだ。

 あるいはまたこんな風にも思う。

 原作の最後で、ユダは「あの人が、ちっとも私に儲けさせてくれないと今夜見極めがついたから、そこは商人、素速く寝返りを打ったのだ。金。世の中は金だけだ。銀三十、なんと素晴らしい。いただきましょう。私は、けちな商人です。欲しくてならぬ。はい、有難う存じます。はい、はい。申しおくれました。私の名は、商人のユダ。へっへ。イスカリオテのユダ。」と言う。

 「へっへ」とは太宰のお道化なのかもしれないが、このような打算的な開き直りはまあ、普通の事ではないだろうか。誰しも自分は聖人君子じゃないと自分を納得させる時があるのではないか、大人は。ねえ。問題は、そこで、演出助手が演出を裏切るのはつまり、initiationだということだ。そんなに気にすることではないのだよと、イエスは優しく言ったのかもしれない。高校生が一段飛び越すその危機的状況に、教師はあまりにも無関心で恥知らずである。部活動を指導するべき顧問は不在だし、生徒部の先生も自ら聴取しようとはしない。教員の連携も無く、生徒の弱みに付け込んで裏切らせ、その生徒が傷つくことには考えが及ばない 大人はきっと忘れてしまったのだろう。忘れないと生きてこれなかったのかもしれない。大人になれよ、いつまで甘いこと言ってるんだよ、と。

 ユダは縊れて死んだという。なぜか太宰のユダにはその自死の気配が無い。舞台のユダ(演出助手)は、実に危機的ではないか。もしイエス(演出)が聖書の通りに「生まれてこない方が良かったね」とでも言ったら決定的だろう。誰が責任取るんだよ。

 演出助手にもう少し頼れる先生がいて、その助けを受けて自立して、(開き直るのでも自己正当化するのでもなく)正義を通す。部活も止めて推薦も辞退して、自分で道を切り開こうとする。そんな結末も考えられるかもしれないと思った。