寒い。冷える。低温注意報がでている。

 三が日は良い天気だったが、4日5日は雪。積雪も多く、朝の雪かきが必要だった。6日が始業式、課題テスト。そこから3連休。まだ冬休み気分か。このところ雪はさほど降らないが気温はかなり低くて、最低気温-5℃である。寝ていても鼻の頭が冷たい。例によって課題テストの採点、はあまりしていなくて、ゴロゴロ、2日に寺への年始、今日は親戚回り。
 
 「高校演劇」について書こうとして、考えをまとめようとしたが、考えているうちに突然嫌気がさして止めてしまった。その間、ここの更新もしなかった。
 
 言えることは、高等学校の教育活動の中で演劇部が設置されていて(もちろん顧問がつく)、生徒会予算によって運営され、高文連に加盟し大会に出場することを主たる活動にしている、ということだけである。
 だから、非教育的、反社会的内容の芝居は「高校演劇」では扱えないだろうし(文芸部の小説作品などはどうなのだろう?)、大会に出るにはその制限(主に上演時間)に従った作品作りをするしかない。
 また、部活動の外で、高校生が顧問の指導を受けずに自主的に、時間や内容の制約無しで公演を行っても、それは「高校演劇」とは言えないだろう。
 
 これ以上何か言えるかというと、もう分からない。世間では、「高校生らしい」とか、「高校生のリアル」とかいうものを持ち出して評価したり(確かに、現役高校生の意識や行動は作品に反映されるべきかもしれないが)、逆にそれを否定したりしている。「高校演劇」の特徴がどこにあるか、言ってみてもむなしい感じがする。講評や、WSで必ずと言って良いほど言われる技術的問題を克服していっても、逆に、「不完全さ」が評価される場合だってある。「台詞のキャッチボール」という言い方は、単にタイミングやテンポの事ではないと思うのだが、そこ(心情表現)を頑張ってもあまり評価されず、そこを頑張らない、テンポの良さや偶然の産物の方が評価されたりするようにも感じる(演劇はライヴだから偶然はその一部だ、とも言えようが)。
 …顧問は何をどう指導すればよいのか? 
 審査員も、観客と同じ視点に立つために、脚本を読まずに観劇して審査することも多いようだが、自分は逆に、観客とは違った批評家的な視点をこそ持って欲しいとも思う。脚本を熟読し、出場校の下位大会での上演も観て、その上で評価して欲しいと思ったりする。2度観れば、意外性やインパクトは薄れるだろうが、観るべき所が明確になり、前回の偶然は排除され、細かい演出が見過ごされないのではないか…。しかし、これも審査員の目を信用していないことをあからさまにしているようなもので、いただけないし、現実的にも無理だろう。
 
 自分はブロック大会出場後、不思議に心が平穏であった。長年の思いが果たされた結果なのだろうか、つまりはそれほどまでにこだわっていたのだと知る。
 明日から部活が再開するが、生徒(1年生)は来年の県大会でも最優秀を目指すのだろうなあ。その目標意識が、実際の作品作りに必要な意識と微妙にずれてくるのを心配したりするが、まあ取り越し苦労だろう。それよりは自分の、演劇への意欲の方が問題だ。