年末雑感

 歳あらたまるといっても、なんということもなく過ぎていく。ただ、仕事が休みだとてきめんに朝寝坊になる。日頃は6時前に目が覚めるのに今朝は8時まで寝ていた。
 
 今年の部活を振り返ってみると、5月から6人の2年生が中心になって11人(途中退部1名で10名となった)の1年生を引っ張っていくという形だった。2年生は12年度の全国大会富山大会を観劇しているので(一昨年の東北大会出場のごほうび)舞台を観る目はそれなりに肥えていたと思う。ただ2年生にまとまりが乏しかったのも事実だった。2年生が全員そろわない日が多すぎた。
 それを遠因とする顧問のイライラに、「ダメ、絶対!」のティッシュをくれた部員もいた。
 うん、確かに2年生には不満からだいぶきつく当たったこともある。ああ、1年生演出にもだな…。ごめんね。
 でも自分は、芝居作りに、ある意味全てをかけているので、どうしても許せない部分があるのだ。そんな顧問に付き合わざるを得ない部員は不幸だろうなあ。ごめんね。
 
 自分は再任用ということで引き続き顧問になったわけだが、半年くらい、なんだか妙な感じでいた。昨年度まで課長などしていたので会議も多かったのが、急に自由度が増した。責任感も急に軽くなって、気が抜けたのかも知れない。その分部室に居る時間が長くなったかと思うが、部員からしたらどうだったのだろうか。
 
 今年の大会作品は、学校祭の上演を観て「ちょっと難しい」という校長の感想があった。そうだろうなと思った。しかし、県大会にも来ていただいて、上演後の舞台に現れ、「かなり良かった」と言っていただいた。いや、とってもありがたいお言葉だったが、危険だから戦場のような幕間の舞台に来ないで、という気持ちの方が強かったのでした。
 2度観ると良く分かるのか。…それでは大会では抜けられないこともよくよく、よーく分かった。
 
 
 インパクトなのだ。「台詞のキャッチボール」など二の次である。客席に向かって激しくアピールすればよい。微妙な心理的あや、台詞の重層性など大会観客の高校生の大半は理解しない。瞬間的なコントの笑いや目を引く(ショッキングな)動きと意外性に富む展開があれば観客の高校生の大半は満足するのだ(学校単独公演の場合は少し違うと思う)。
 なぜそうなってしまっているかと言えば、静かな芝居がつまらないからだ。プロじゃあるまいし、高校生演劇部員程度が「演技している」芝居では感動など与えようがないからだ。そこを勘違いして馬鹿正直に高校生に「演技」させようとするからいけない。そうして必死に作りあげたものを、高校演劇畑で成り上がった人は実はそれほど評価しない。それが実際なのだ(プロの見方はちょっと違う)。講評ではそれらしいことをのたまうが、実際の評価の基準はそこからずれている。
 そもそも正統な? 演劇論で高校演劇を語るなどおこがましい。素人顧問が2年やそこら片手間に面倒みてそんな役者を育てられるものか(いや例外はあるのでしょうが)。
 高校演劇は独自の道を歩めばよい。高校生が演じ、高校生が観劇する。そこで完結していて良い。ようするに文化祭の出し物に毛が生えたようなものだと割り切るのがよい。一般の大人の演劇好きがそんな高校演劇に注目するのは、時事的テーマに関わった場合だけだ。「高校生はこの事件をどう受け止めているか?」という取材対象にすぎない。
 顧問創作、生徒創作といっても、素人が初めて書いたような脚本がどれほどのものか。全国で無数の「創作」が咲いては散って行くが、本当に脚本家として残る者などまずいない。高校生活の記念として残す程度の脚本、顧問の自己満足程度の脚本は後世に残す意義もないだろう。
 
 
 という高校演劇観を書いてみましたが、これに諸手を挙げて賛同する方はどれくらいいるでしょう? 
 先生方は何を信じて芝居作りを、演劇部活動を進めていらっしゃいますか?
 
 高校演劇何処へ行く? 何処へも行きゃしない。行きようもない。ここで何をするかだ。