雑感

 全国大会が終わりました。みなさんお疲れさまでした。審査結果を見ましたが、何を以て優秀とするかは、基準となる客観的な指標がない芸術においては鑑賞者の持つ鑑賞能力によるしかないでしょう。
 
 以下、自分の、自分だけの考えを、とりとめなく書いてみます。
 今回の大会は全く観ていないし、脚本も読んでいないので、上演作品と関係はありません。
 
 「今を生きる高校生」が、自身の直面する問題を取り上げ、率直な感情を舞台上に展開する。これこそが「高校生らしい」高校演劇である、のだろうか、ということです。
 
 弁論大会で誰が優勝するか? 特異な体験、経験を持つ者の語ることが、その体験故に優秀とみなされるのか。そんなことでもないでしょう。その体験にどのように対処したか、何を感得したか、その体験による自己の変化をどのように意識化し、他者の心に訴える形にして語るかという技術的な部分もあるでしょう。高文連文芸部門、放送部門などにおける「創作」も同様なのではないでしょう。
 
 いつの時代にも高校生はいて、その時々の時代・社会の抱える問題はその中で生きる高校生にも深く影響している。それを高校生の視点から、高校生の感じるままに表出する…。その時に、演劇として何が必要か。素で出すことをよしとするのか、演技にして出すことを要求するのか。現実を見せてよしとするのか、現実の中の真実を見せることを要求するのか。
 
 繰り返しになるけれど、「演劇部」の仕事が、運動部やHRなどの寸劇、警察署の防犯寸劇と違うのは何処に於いてなのか。 
 もう少し言えば、「芝居を作る」ということは何をすることなのか。「(高校生の)自己表現」・「(高校生の)自己主張」なのか。
 
 現実を見せるにしても、そこから何か深い真実(明暗の別はあるだろうが)につながるものが垣間見られるべきではないのか。その時にこそ、観る者も深く感動するのではないか。
 
 そういった作品を創る(脚本を書き、演出し、演技する)。それが高校生にできるかどうか。できる人もいるでしょう。しかし多くの場合、それは困難であり、顧問が脚本を書いて演出してというやり方になる。これは出発点が大人であって、高校演劇にはならないとも言える。しかし、日常において最も高校生に接しているだろう顧問が、高校生の活動を援助する。経験もあり技術的に高いものを持っている顧問やコーチが生徒を高い所(より高い意識、より濃密な演技)に引き上げることはあって然るべきでしょう。
 運動部に於いて、コーチがいないで自分たちだけで練習して大会に出るという部はほとんどないのと同じではないでしょうか。
 
 審査基準に、既成脚本、生徒創作、顧問創作の別がないのは、だから当然のことなのでしょう。
 
 だとして、結局、高校演劇もまた演劇であるということに変わりはないわけです。高校生のやる野球やサッカーとプロのやる野球やサッカーは違うでしょうが、野球でありサッカーであることに変わりはありません。ですから、演劇という表現をつきつめていくことが必要なのでしょうが、2年半くらいで終わってしまう高校生の活動期間では、それはとうてい困難なことでしょう。高校生がより高いところに至れるのは、指導者の助力によるのです。
 しかし、それを指導者個人の名誉のように思い、生徒はその手段であるとするような認識は明らかに誤りです。自慢することも批判することも的外れなのではないでしょうか。
 注意すべきは、少し間違えれば、顧問の独善的な演劇観で生徒を振り回すようなことになる危険もあるということでしょう。
 
 何か的外れなことを書いたような気もします。
 
 
 毎日稽古している生徒部員たち。みんなして一つの作品を創り出そうとしている。「創作」という深遠な作業にいっしょうけんめい取り組むことは実に楽しくすばらしいことです。