高校演劇と審査(評価)について

 どこから論じても反論が可能だし、どう論じても堂々巡りになってしまうのだが、もう一度、別な方向から考えてみよう。所詮、素人顧問に過ぎないのだが、そういう人間がこの世界を作っているのだから、我々自身が考えるほかない。
 
 コンクールであるために、勝ち抜くのに適した演じ方というものが追求される。それが高校演劇独特の技術論になる。しかしそれは一般的な「演劇」に必須なものではない。ここが「高校演劇」は「演劇一般」の中では特殊なあり方をしていると考える根拠になる。
 コンクールを勝ち抜くために「技術」を磨き、勝ちパターンを探り、獲得したパターンを繰り返す。他校上演の評価された部分(要素)を(たとえ必然性は無くとも)取り入れ、最強の勝ちパターンを目指す。結果、取り上げる内容も千篇一律、表現も同工異曲、いつかどこかで見たような舞台が繰り返される、という印象を拭いがたい例も一部にはある。
 「減点されない」舞台を作り上げれば一定の評価を得られるだろうが、表現の自由さ豊かさとは相容れない。
 
 一方で観客も、次々と演じられる舞台を連続して観るために、落ち着いて深い理解を待つこともなく、疲れているために睡魔と戦わなければならない。上演が少しでも理解しにくかったり、静かだったりすればたちまち眠ってしまう。上演側は眠らせない工夫も(受け狙いも含め)必要になる。
 
 ある上演に対して観客の大多数が同じように好感を持ったとしても、数パーセントは必ず異論を持つ人がいる。不快感さえ持つ。これはどのような舞台であってもそうだろうし、それは自然なことだ。とすれば、全権を委任した審査員がこの数パーセントに入ったとして、その非を鳴らすことができるだろうか? 多数の支持が評価を決めるのなら、選抜された評価委員(生徒でも可。人数は多い方が良い)の投票で事は済む。(しかしまた、我々は数パーセントの側の評価をとうてい納得し得ないだろうが)
 審査員にはそれだけの権利が与えられるのだから、最も専門的な鑑賞眼と見識とをもって評価にあたり、我々に分かりやすく説明してほしい。時にある、部員や顧問を揶揄するような発言は不要である。
 
 数人の審査員が評価に当たるとき、客観的な全員一致はほぼありえない。それぞれが違った鑑賞歴、創造経験、感性(好み)を持つのだから当然である。2対1になったら、3対2になったらどうするのか。議論するのか多数決なのか、権威の高い方の意見に従うのか。どちらを選んでもどうせ大差ないということで妥協するのか。
 この経過は密室の中で行われるので、ごく一部の者(審査立ち会い者)にしか分からない。ずいぶん昔には、事務局長の顧問が同室して審査員と会話することもあり、それはミスリードになるのではないかという厳しい批判が出て、出場校以外の顧問が送迎や接待、立ち会いをするようになったという経緯もある。
 しかし、会場での挨拶、宿舎への訪問、電話など接触の機会はいくらでもあるので、なんらかのコネクションがものを言っているのではないかという疑念は尽きることがない。
 万年県大会止まりの顧問が持つ不平不満と軽くとらえてもらいたくない。全国大会出場経験豊富な顧問でも同じように疑問に感じる審査結果もあったのだ。
 
 審査員がどのように舞台を観たかを知るには、公開される講評が最も有効なものである。しかし、各上演への講評がどれほど納得いくものだったとしても、それらを比較し優劣をつける段になると、いったいどのようにして順位が決まったのか、我々には分からない。個々の作品を比較しつつ「こういう点でこちらが優り、こういう点でこちらが劣り、総合的にはこうなります」というような説明がないからだ。最も分かりやすいのは点数制だ。点数化すれば比較は容易になり、審査員の批評のポイントが明確になるだろう。
 だが、比較の基準を明確にし点数化したところで、採点は審査員の受け取り方次第なのだから基準はあって無きに等しいとも言えるだろう。
 
 
 我々には、審査結果に不満や不審があっても異議を唱える道がない。アウトかセーフかビデオ判定するような手段も時間もないので即表彰式になり、大会は終わり、審査員は去る。いや、いくら不満を述べても判定は覆らないのだから無意味なのだが、大リーグの審判でも誤審はあるのだから、観劇した者の大部分の感想・印象に反した結果にはそれなりの再説明があってしかるべきだろう。評価された側から評価した側への質問とか逆感想とかを出せる場があったらずいぶん違うのではないか。(そんなことを認めたら審査員のなり手がいなくなるかもしれないが)
 上位大会出場を果たせなかった部はどれほど説明しても審査結果に納得しないから、気持ちは分かるが仕方ないと切り捨てるのはあまり親切な態度とは思えない。部員・顧問側と審査員側が意見交換する場があれば、互いに不信感を持つことも無くせるのではないかと思ったりする。
 スポーツの世界でも審判の気分次第で判定が辛くなったり甘くなったりすることがある。が、選手や監督が抗議すれば退場させられることもある。それだけ審判の権威は守られている。高校演劇の世界でも同じなのだろう。審査に当たる者はそれを肝に銘じなければならない。
 
 
 コンクールを勝ち抜く技術から離れ、「演劇」という手段による表現活動を純粋に追求すれば、その可能性は広い。そこに60分間という上演時間、幕間20分間の中での仕込み・撤去、40~50分間というリハーサル時間、基本仕込みに従わなければならない照明等々の制限があったとしても、様々な表現が可能であろう。そして内容も、教育的配慮は必要だろうが、あらゆることを取り上げる自由がある。表現の幅を広げ、今までにない世界を表現しようとする創造的活動こそが求められる。
 かといって、目先の新奇さだけを求めたり、極端な表現に走ったりするのは筋違いだろうが。
 
 
 コンクールの評価(成績付け)は未来の高校演劇の方向に影響する。評価する者にはその責任がある。そこを確認した上で審査していただくことがとても大事だろう。高校演劇の発展にとってそれが非常に重大なことだと切に思う。
 まだ、地域や人によってはコンクール技術論の範囲を出ない評価(順位付け)や、社会問題を取り扱う時に特定の傾向を無前提に良しとするような評価(順位付け)があるのではないかと感じている。20年も30年も前の感覚が残っているのではないか。そこには一種の閉塞感があって、「高校演劇どこへ行く」という気分になる時も多いのである。

 いや、えらそうなことを書きました。ご勘弁ご勘弁。