評価再説

 (この記事は、某ブロック大会に関する、ある顧問の方のブログの内容を引いて書きましたが、その特定の事例と自分の考える一般的感想とがごっちゃになってしまい、誤解を与えかねないものになっていましたので、特定の例に関わる部分を削除しました。また、自分が審査の現状をよく理解しないままに書いていることもありますので、的外れなことも多いかと思います。…地区大会以上の審査員になったことがないので)
 
 一般的な話だが、審査員として推薦される方ご自身はすばらしい舞台を作られ、普段は鋭い批評眼を持つ方々が、いったん「審査員の目」になると、大会独特の雰囲気の中で何かバイアスがかかるのではないか? というような疑問である。(不正があるなどという話ではない)
 たとえば、受けを狙って笑わせているだけのものと、作劇上の必要として戯画化とか誇張して笑わせているものとでは明らかに違うだろうが、その辺の判断がどうもあいまいになってしまうように感じる。あるいは、演出ではなく偶然によって現れたに過ぎない効果を「奇跡的な好演」と判断してしまうようなことである。(上位大会では往々にしてその偶然の効果は現れず、無残なことになる)
 高校演劇においては、表現されたものの表面だけでなく、その内奥にある演出意図(作品の意図)をどこまで汲み取ってやれるかが審査員の力量と言えるのではないのか。
 しかし実際には、偶然の結果なのか意図的な演出なのかを見極めることは困難だろう。ではどうすればよいか。
 まず全上演の脚本を事前に読むべきではないか(既成作品の場合は多くはすでに読んで(知って)いるのだから、創作も公平に扱われるのが当然ではないか)。審査員が、(脚本を知らない、読んでいない)一般観客と同じ目線で鑑賞しなければならないとは限るまい。脚本をいかに演出し、舞台上に表現したか、その努力、苦心の成果を汲み取ってくれるべきではないのか。事前に読めば、何が主題でどこが作品理解のポイントになるか分かり、それが成功しているかどうか判断できるだろうし、どこが意図的なものでどこが偶然の産物なのかがかなり明瞭になるのではないか。
 もう一つ、観劇して感じた疑問、違和感は上演後直ちに質問事項として上演校にぶつければいいのではないか。この段階での上演校と審査員との応答は有意義なように思われる。幕間に審査員が生徒演出とか作者と会話する時間はとれるだろう。
 
 
 方向を変えて、審査員が台本に嫌悪感を持つのはどういう場合か考えるところから入ってみる。
  ①テーマの如何による低評価
   ・反社会的、非道徳的主張を含む。
   ・政治、時事問題で偏った主張を含む。
     ・流行に乗っただけのものでオリジナリティーがない。
  ②テーマの扱い方による低評価
     ・観客に媚びるだけのような扱い方。
     ・テーマを冒涜するような扱い方。
     ・類型的で皮相な扱い方。
 もしその台本に上記のような点が見られず、又多くの観客がこういった印象(嫌悪感)を持たなかった場合、それは逆に審査員の偏見にすぎないのではないかという疑念が残る恐れがある。もちろん、審査員個人の感性は尊重されるべきであり、評価は多数決で決まるようなものではないことも理解しながらであるが。
 審査員だからといって、評価において、常識的に許容される範囲を超えて自分の好みを押しつけるようなことはできない。非道徳と見なすにしても、自己の倫理観のみならず社会一般の道徳観、そして(ここが難しいのだろうが)作者の芸術的衝動の正当性に照らして判断すべきものであろう。
 
 厳しい言葉で批評するならば、演じた側が納得できる説明が必要だろう。審査員にはその責任がある。言いっぱなしで去られる作者・演者(生徒部員)さらにその作品を支持した人(観客)たちにしたら、惑った心のやり場がない。
 地区大会を経てブロック大会に出て来た作品であるのだからなおさらである。多くの支持があるからこそ抜けてきたわけであって、(この場合には台本を)全く無価値であるように扱うのは失礼にあたるのではないか。

 審査員が変われば評価も変わるということは良くあることではある。全国大会にまで出た作品が徹底して低い評価を受けることさえもあった。このような状況では、各レベルの大会における審査の意味が(無いとは言わないまでも)薄れてしまうのではないか。審査員の好み=審査員の当たり外れという要素が入ってきて、ただでさえ難しい評価が「運不運で左右されるものだ」との認識が定着してしまうだろう(もう定着しているのか)。
 審査方法について、何か抜本的な改革が望まれる。(上に書いたことの他に、生徒講評委員会でまとめた感想を審査員に提供することも含めて)
 高校演劇の将来のために。