全国大会の後、少し考えたこと。

 一般的に、高校演劇大会の審査と講評については、もう言うべきこともないような気がする。
 自分はもう、大会の成績結果は(上位大会ほど)運と好み(審査員の)でしかないと割り切ってしまっている。(まあ、評価されたら=より上位の大会に抜けられたら、それはうれしいですが) 

 審査員講評は聞かないほうが健康に良い。これは確かだ。

 高校演劇では500席以下(いや100席以下でも)の会場で演じたほうが良い作品も多い。というより、1000席以上の大ホールで芝居をやるなんて、プロでも敬遠するんじゃないか。これは客席と舞台との、演者と観客の距離の問題だ。全国大会のように1500席などというホールの中程から舞台を見たら、役者の細かい表情なんて見えやしない。それで、よく見えないからといって減点されたりしたらわけが分からない。
 また、エンターテインメントの傾向が強いか、より芸術的完成度を追究するか、その指向性の違う芝居を同列に比較、論評するのも無理がある。芥川賞直木賞を同列に批評するようなものだろう。

 また、いかに専門家を審査員に迎えたとしても、プロフェッショナルの芝居とアマチュアの芝居、そして大人と高校生の芝居というものの違いを十分に認識して審査することは予想外に難しいだろう。
 今回初めて高校演劇を見ましたという方はご遠慮申し上げたい。プロの芝居とアマチュアの、それも高校生の芝居はほとんど別物だからだ。
 全国大会が終わって翌日、8月4日にこまつ座の『イヌの仇討ち』を観たが、昨日まで観ていた芝居とは全く別物であると思った。高校から美術部に入った生徒の描いた絵と老練な画家の絵を並べてみることを考えればすぐ分かる。役者の力量、スタッフの力量、脚本の力、なにもかも違う。(高校生に天才がいれば別だろうが)

 話を変えて、甲子園野球大会の場合、審判はプロフェッショナルである。ルールはアマチュアでも高校生でも同じである。勝ち負けの基準も明確である。9回までに1点でも多く得点した方が勝つ。そして、アンパイア―は論評しない。テレビ中継で解説するのは審判とは別の、高校野球に精通した人である。その論評は、技術面でも心理面でも、部活動のあり方についても実に的確である。
 高校演劇では、審査員が、結果発表後の講評で自分のルールを明らかにする。「私はこのような基準で選定しました」と。発表した方は何がルールだか審査基準であるかが分からないで上演している風である。60分以内で上演すること以外に一体どんなルールの下で競っているのか分からない。
 後付けだから何でもルールになる。声が小さかった。照明が暗かった。装置が不適当だった、などはまだしも、社会性が足りない、云々。社会性の有無を基準にするということが後から示される。それじゃあコンクールが始まる前から結果は決まっていたということか? 最たるものは、「心に響かなかった。」(心に響かなかった、でも良いのだが、それが個人的感想にとどまる限り、「運と好み」という以外に納得するすべはなくなる。上演した側が、「なぜ他の多くの人の心には響いたのに、この人の心には響かなかったのか?」を考えなければならないのか。そんなこと分かるわけがない。審査員=講師の側に説明する責任があるのではないか。)
 審査員と講評者を別にしたらいいだろう。成績結果と作品評価を切り離す。そうすれば、もっと自由な、前向きな言葉が聞けるのではないか。もちろん、講評は結果発表の前に行う。

 エンターテインメントは、面白がらせたら勝ちだろう。観客は受け身だ。「さあ、楽しませてくれ!」 
 しかし、芸術を指向する作品はそうはならない。ある程度、鑑賞者の能動的な関わりが必要となる。「自分で考えて観ろ」ということだ。前者は見慣れたパターンを繰り出しても成功する。ご老公の印籠のごとくである。しかし、後者は、誰もやったことのない表現を追究しているので、受け身の客には難解である。わからなければ退屈で、おもしろくないとなる。
 客席にいる演劇部員には、「お客様」ではなく、上演者と同じ、演劇にのめりこんでいる者としての舞台の見方というものがあるだろう。それは教えられていないのか。

 ここまでくると、「お前の芝居は客を選ぶのか?」と言われるだろうなあ。それに対して「はい」と答えれば傲慢だと非難され、「いいえ」と答えれば自分の心に嘘をつくことになる

 嫌な世界だなあ。

追記
 エンターテインメントと芸術とを対極にしているが、明確に二分されるものではないので、その間に無限のバリエーションがある。また、エンターテインメントを否定しているわけではなく、「芸術」といっても、しかつめらしい内容・表現の芝居ばかりを言っているのでもない。作る側の(鑑賞する側もだが)意識の問題になる。「芸術」の意味が説明しづらいので、芥川賞直木賞という言い方をしている。芥川賞受賞作品にも色々あるわけで、『限りなく透明に近いブルー』なんてのもあったりする。
 今年度の全国大会では、エンターテインメント傾向の強い作品が、より高く評価されたと思う。
 ただ、優秀賞受賞作品でも、全国大会レベルのエンターテインメントになっているのか疑わしい(と自分には思われる)ものもあったと感じている。学園祭で、(演劇部でなくても)少し目立ちたがり屋の子が集まって芝居をした。結構受けるものが出来た。という程度のものという感じがしたのだ。
 照明など技術的なこともあるし、何より、いつかどこかで見たような場面が繰り出され、本物ではない想定された(テレビドラマやマンガで見るような)「高校生らしさ」が充満し、会場の高校生もその雰囲気に乗っていくことが、この高校演劇の世界では「成果」として認められるのだということが、自分にはよく理解できなかった。
 東北ブロックから出場した2校は、それは重い実体験を踏まえて、本物の高校生の心情を演劇化して表現したのだった。自分にはその方が高校演劇の「成果」として、より評価されてしかるべきではないかと思うのである。
 未曾有の大災害に遭った人がどんな苦しみを心に抱いているのか、現在進行形の苦しみ悲しみを、いかに「劇化」するか。その苦心を思いやらないで、『ストレンジ・スノウ』に対して「あんな風になる人もいたんだろうな」などと感想を述べることに対しては、自分はひどく失望している。
 内在化された意図を読み取る、感じ取る訓練がなされていない。「創造」の秘密を知らない人間にはついに理解できない部分がある。演劇部の活動の中にそういう部分があるかないかという違いが、芥川賞直木賞の違いになるのではないか。