山形市は震度3でした

 地震。部活中の部員たちは、立ててあるパネルから離れ、部室の真ん中に集まっていた。出入り口は開けたままで。しっかりしている。6時に部活終了。電車は動いていたようなので帰す。
 
 12月19日にアトリエ公演。成績会議なので自分も含め教員は誰も観られないが、前日が音楽(合唱)部さんのクリスマスコンサートで、重なるのはどうかというので19日になった。音楽部さんが観に来てくれるという(全員じゃないだろうが)。自分はビデオで観よう。
 今日から台本を持ちつつ立っている。立っているといっても、装置がある程度組んであるので、その中で動いている。まだ全然だけど。音も入れられるところは入れている。照明はまだ仕込んでいない。来週は延長部活にするつもり。
 
 
 創作と既成について書いたところ、お二人からコメントをいただきました。それでもう少し整理してみました。でもたいしたことは考えられない。
 
 創作にしろ既成にしろ、その脚本を読み込み、解釈してキャスティングし、演出して上演にいたる過程は基本的に変わらないはずだ。創作の場合は脚本ができていく過程が同時進行のようになるかもしれないが。

 脚本選定に当たっては部の状況、部員の人数・男女比、個性、経験、力量などに適合するものを選択する。これらが適合しなければ上演も不十分なものになるだろう。また、脚本の解釈が浅かったり、誤認がある場合も不十分な上演になるだろう。
 
 
 では創作と既成で何が違うのか。「つくる側」と「みる側」に分けて考えてみる。

 「つくる側」からすれば、創作は自分たちのオリジナリティを脚本の段階から発揮することができる。だが既成脚本でも、自分たちが共感できるものであれば、そのテーマなり表現を深めていくことができるだろう。そこにオリジナリティが出てくる。岡部先生ご指摘の所である。さらに進めて潤色することもできるだろう。これは創作への第一歩でもある。
 既成脚本は何度も上演され評価も定まっているが、創作脚本は本邦初演である。まだ誰も観たことのないものである。モデルにすることの出来る上演はない。全国大会まで出た既成脚本なら、オリジナル上演のビデオを観るとか、近隣他校の上演を観ることもできるだろう。

 
 「みる側」からすると、既成脚本は高校演劇関係者にはよく知られているので、上演校のオリジナリティは演出上の新味にあるということになるだろう。舞台美術、衣装、設定(時代や地域)の変更。あるいは内容の解釈においても新しいものが期待される。この点では以前の(高評価だった)上演と比較されるので、「つくる側」も難しいと言える。精華高校さんの言われるとおりです。
 ただ、高校生はそれほど鑑賞歴がないので、既成でも知らない場合が多いかもしれない。それなら両者を観るのに差はないということになるが、顧問になると話は別だ。
 
 「みる側」の中で特別な立場にいるのが、評価しなければならない審査員である。高校演劇関係者が審査員の場合、既成なら審査員の記憶にある、以前の上演と比較して評価することが出来る。その脚本はすでに全国大会以下各大会で評価されているのでその良さは保証されている。評価はその先、理解と演出の部分にかかってくる。脚本の独立性が高いというか、脚本と演出が分けて見られるのではないか。
 創作(新作)となると脚本は未知数である。上演も初なら評価も初になる。初評価の難しさというものが出てくる。脚本の評価に見落としが無いとは限らないから責任は重い。
 また、脚本部分と演出以下上演に至る部分が一体未分化に見られる、とも言える。
 この評価の難しさが、チャンピオン(既成)を倒すには判定でなくKOしかない挑戦者(創作)の立場をもたらしているとも言える。
 
 ただ、高校演劇になじみのないプロの方が観れば、既成も新作も知らないのだから、以上の差異はあまり関係なくなる。だからプロの方が審査員である時の評価はまた違うのだろうなと思う。