一日秋晴れのいい天気だった

 予想通りというか、なんとなく見通せた結果でした。
 大会はお祭りで、審査もお祭りにつきもののものぐらいに考えよとのことだが、カラオケ大会の金賞銀賞みたいなものだと思えばいいのか。運動部員や音楽系など文化部の部員が聞いたらどう思うだろうか。全国の演劇部の部員は皆そう思って良いのだろうか。
 成績発表後、部員の保護者の方と会って少し話したが、何か基準があるんですかと言われるので、あります、審査員の好みですと言ってしまう。ああいうのが選ばれるんですねと言われる。その言葉のニュアンスは言い難い。この方は全上演を観られたとのこと。
 
 好みの問題だとして、自分の好みを言えば、酒田西高校の「ストレイシープ」が最も好みであった。昨年同様小説からの脚色だが、一段と完成度が増したのは一人芝居故でもあろうが、「小説を演じる」という形式を見出したからであろう。よく映画を漫談で再現するというような芸があるが、小説を戯曲化するのではなく、「語る」という方向で舞台化したのは面白い。白石加代子などの語りとも違う。途中で歌ったり踊ったりする。何でマイクを持って歌い出すのかはよく分からなかったが。
 全体の結構が、落語(笑点)ではじまり落語の落ちで終わるというのも納得である。小説のように心理的な部分を言葉で表現できる。台詞と動きで演じるのとは違う表現が可能になる。この形式はとても面白いが、原作が必要であるという点で二次創作的な宿命を持っているのが惜しいところか。
 しかし、全編緊密な構成と音響・照明の効果で観客を惹き付けたのはとてもすばらしかった(好ましかった)。
 
 昔は、暗転は60分ならあっても1回と言われたものだが、今年の全国最優秀校は4回暗転していた。つまり、そういう心構えで作ればいいのであって、何が何でも暗転はダメというふうな教条主義に陥ってはいけない。笑いが特に前半に必要だ、導入何分かまでに事が起きなければならない等というのもその類で、指導の目安としては正しいのかも知れないが、創作の枷になってしまってはいけない。
 全く笑いがない芝居がダメなのかというと、そういう芝居は世の中にいくらでもあるのだから、高校演劇、コンクール演劇だけに言うのは特殊なことを要求していることになる。
 コンクールでは、観客にじっくり後味を楽しむ、脚本を読んでみるなどという余裕を持たせない。ロングランの末に評価が定まっていくのでは無い。一発勝負である。だからそういう技術論が受けいれられる。
 芝居を観て直後に順位付けをさせる大会側も理不尽だし、直後になんらかの結論を出す審査員も理不尽である。部員たちはそれを受けいれざるを得ない。
 
 再び自分の好みのことになるが、今回の最優秀2校については好みでなかった。審査員の好みとはかなり違っているが、これはどちらが芝居を見る目があってどちらが見る目がないということではない。好みの違いなのだから。人間が違えば好みも千差万別である。
 
 各県からブロック大会に集まる作品もこのようにして選ばれてくるのだろう。そうしてブロックから全国へ。好みによって振り落とされた無数の作品の中のいくつかが全国一位の作品に劣っていたとは限るまい。げに好みの恐ろしさよ。成仏成仏。