雑感20180910

 録画していた『フートボールの時間』を観た。なんとなく集中できない気分で観たのでなんとも言えないのだが、感想は「ああ、高校演劇だなー」という感じだった。
 高校生の力一杯の演技、ここまでの頑張り、よく分かる。他の出場校もみなそれぞれに頑張ってきた、その中で最優秀という評価を得られたのだから素晴らしいことだ。

 テレビを見ながら思っていたのは、東日本大震災の前年、当時顧問をしていた部が県大会に出場したときの作品のことだった。自分たちの学校の歴史から題材を取って演劇作品にする。その、視点というか動機が似ていたからだ。
 それは、ある重大な事件の真相に迫った(と思う)作品だった。生徒部員達はよく調べ、取材し、稽古した。当時を知るOGの方の貴重な証言から、あの作品は生まれたのだった。
 あの県大会からブロック大会に出た2校に、その作品は入らなかった。
 自分は、選ばれた舞台と自分たちの舞台を比べてみて、どうしてもその「優劣」が納得できなかった。
 次点校として生徒講評委員となり、そのブロック大会に参加した。どうして自分たちがこの舞台にいないのか、生徒ともども不思議でならなかった。

 そんな思い出である。あんまり悔しかったのだが、犯人とされる役のモデルが存命なのにと批判されたこともあり、もう二度と上演はしないと決意した。(まあ、翌年大震災があり、福島-香川での全国大会(うちの生徒が生徒講評委員長を務めた)があり、その年の県大会では29年ぶりの最優秀でブロック大会出場を果たしたのだが)
 しかし、何年も経って、「あれは凄かった、ブロック大会行くと思った」という声を聞いたりして、なんとかもう一度日の目を見させたいと、前言を翻し、ホールを借りて再演した。その時は山形東さんと名取北さんを誘っての合同公演だったのだが、アンケートを読んでみると、名取北さんや山形東さんの舞台に贈られる賞賛が多く、自分の所には少ないのだった。これには参った。

 さて、旧制高等女学校でのエピソードと現在の高校生を重ねる、結びつける、そういう仕組みの劇として、自分たちがやったことと比べてみると、なんとなく、高校演劇だなーという感じで見てしまったという話なのだが、高校演劇っぽさ(というとまた面倒なのだが…)はそれはそれでいいのだろうが、60分をフルに使っていかに深く緻密に演じるか、いかに演劇作品として自立させるか、を真剣に考えていた自分(たち)にとっては、いささか物足りないものに思えたということである。
 女子サッカー発祥の学校というネームバリューは大きい、強い。
 県大会落ちした、ほとんど知る人のいない作品の分際で全国最優秀作品をけなすようなことを言って申し訳ない。まあ、自分という人間はこういう傲慢な人間なのだと再確認するだけのことかもしれない。隠居の昔話、愚痴でしょう。