『羅振玉自伝』 満洲建国構想

 先日購入した東洋文庫『羅振玉自伝』(深澤一幸訳注)を読んで気になったこと。

 

 羅振玉は光緒二十七年(1901、明治34年)に教育制度調査のため日本を訪れている。1866年生まれだから満35歳だった。滞在は12月末から翌年2月下旬(旧暦11月から翌年正月)までの二か月間だったが、その間様々な場所に行き、いろんな人と会っている。

 その中に東亜同文会副会長の長岡護美子爵(熊本藩細川家十代の六男)との面会について書かれている。ある日、長岡子爵(満59歳)から華族会館に招かれた。通訳一人だけである。子爵は尋ねたい秘事があるので他人を呼ばなかったとして話し出す。

 

 引用開始(中略、下線、色文字などは引用者)

 甲午(一八九四、日清戦争が起こった)より両国が不和になったのは、東方の大不幸である。戦後、日本の国際地位はにわかに高まり、ヨーロッパ人の忌避するところとなった。そのうち必ずロシアと日本の争いがおころう。日本は領土が狭いので、勝てばいいが敗れるわけにはいかない。敗れれば滅亡し、勝っても大いに元気を傷つける。万一ついに戦端が開かれたら、貴国の東三省は両国の衝突の場になる。もし中国の国勢が強盛ならば、この緩衝地帯があって、日本は大いに庇護されるだろう。ただ貴国の国勢ではおそらくこの緩衝地帯を固持はできまい。両国が開戦すれば、日本はなんとか生き残るために、必ずまず貴国の中立を犯すだろう。甲午の戦役で、親睦はすでに一度損なわれたが、どうして再再損なうことができようか。だからこそ戦争を回避せねばならない。今ここに一策があり、特に君にご考慮ねがいたく、どうか一言助言してくださらぬか」…中略…「わが国はこのため元老・枢密院と前から協議してきたのだ。ひそかに思うに、変法は危険なことで、今中国は日日変法を言うが、その得失は一言では言い尽くせるものでない。いたってわかりやすい点からいえば、おそらく民情は不穏になり、国勢は不安定に転じるだろう。どうして貴国皇帝が近縁の王公の賢い者を選んで、奉天に分封し、満・蒙を合わせて一帝国とし、地利を開発し、各国の人材を高官に雇用し、これによって新法の試験場としないのか。変法して善かったなら、中国はゆっくり行っても晩くない。もし善くなかったら、経験として参考にできるし、国の根本まで損なうことはない。わが国は今まさにイギリスと同盟条約を締結しようとしておる。もし新国が建国されていれば、日英両国が国際会議を提案し、この新国を暫定的に局外中立とすることができる。ただ藩属国とすることはできぬ。種々の不便をもたらすだろうから。かくすれば、貴国は変法の危難を免れることができ、日本も日・露の戦争を免れることができ、実に両国有利の事である。この策は本会が提案したのだけれども、実はすでに天皇の同意を得ておる。もし公が善しと思われるなら、どうかひそかに両江・湖北の両総督に告げ、政府と協議していただきたい。しかしこれが誠意から出たものであると君は認めるかどうかわからぬが」。わたしはそこでその策が善く、意が誠なることを誉めそやし、「両総督に力説しましょう」と言い、「もし両総督が善しと思われたなら、必ず公と進め方について相談します。公は両江・湖北に来れますか」と尋ねると、長岡は言った、「よろしい」。わたしはそこで懇ろに今後の事を約束しあった。

 引用終了

 

 wikipediaによると、長岡護美はこの年5月から7月にかけ訪中し、南部の諸総督巡撫らと満州開放・領土保全について議論したとあるが、既にこの件についても中国側に伝えていたものかどうか。その案はもともと東亜同文会の会長近衛篤麿から出て、長岡に託されたものである。来日した羅振玉にまで話すとは熱意のほどが感じられるが、日英同盟の計画まで漏らされているのは秘事というにしては隠密性の面から危ういような気もする。あるいは策が深化した(満洲の門戸開放から建国案へ)のであらためて提示したのかもしれない。このへんの経緯はすでに研究されているのだろうが寡聞にして知らない。

 羅は帰国して劉坤一(両江総督)、張之洞(湖広総督)に報告した。彼らはすでに数か月前長岡と内政改革・ロシア対策について会談していた。両総督はひそかに長岡を招かせたが長岡はこの後病気になり中国へは行けず、代わりに近衛篤麿が行った。武漢で話し合いが行われ合意がなされた。しかし北京の永禄西太后側近の満洲人、その娘は溥儀の母)に打診したところ了承されず、そこで沙汰やみとなったという。劉も張もすでに高齢で、まもなく他界した。

 

 日本はまだ朝鮮併合に至らず、満州事変はさらに三十年後だが、この時期からすでに一部日本人の中には後年の日本による満洲国建国につながる遠大な構想があったということなのだろうか。清国側も同調するような、なかなか面白い東洋平和、対ロシアの構想ではないか。実現していたら歴史はずいぶん変わっていただろう。

 しかしこの前年、1900年の北清事変(義和団の乱)以後、東三省(奉天吉林黒竜江の三省)はロシアに占領されていた。もちろん、アムール川以北は1858年の「アイグン条約」で取られ、遼東半島は1895年の「三国干渉」以後ロシアの租借地となっており、ロシアは南下し続け満洲に勢力を広げていた。当時の満洲にはロシアが軍政を敷いて、容易に撤兵しなかったのだ。その撤兵交渉の最中だから、満洲族の王公が満洲に建国するなど実現困難なことだったと思われる。

 

 この後の政治状況の変化を大雑把に復習してみる。

 

 義和団は1900年6月北京に侵攻、各国公使館は包囲される。日本、ロシア、イギリス、フランス、ドイツ、アメリカ、イタリア、オーストリアハンガリーは連合軍を成して解放に向かう。清国はこの八か国に宣戦布告するが、8月になって北京は八か国連合軍が占領。西太后は北京を脱出し、西安まで蒙塵した。いわゆる「北京の五十五日」であり、その実際は芝五郎中佐の『北京籠城』(東洋文庫)に詳しい。

 清国が義和団弾圧に転じたため義和団は瓦解した。この間、張之洞と劉坤一は西太后の命令に反して義和団を討伐し列強を保護する「東南互保」を行った。 

 1902年「日英同盟」、1904~05年日露戦争の結果ロシアが満洲から撤兵。結局日露の対決は避けられず、互いに数万の犠牲を払うことになった。

 清国は膨大な賠償金に苦しむ。そのツケを民衆に転嫁したため、ついに1911年「辛亥革命」が起き、宣統帝溥儀は退位、南京に「中華民国臨時政府」が誕生する。一方北京の政府も存続し、紫禁城には溥儀が住み続けており、ようやく1913年になって日本を含め列国が「中華民国」を承認した。その後、袁世凱の帝政、北洋軍閥の支配が続き、南方では孫文が数次にわたり「広東政府」を立てる。一つの政府の下に全土が統一されない混乱した政治状況が続いた。1928年には満洲軍閥張作霖が爆殺され、その子張学良が易幟して蒋介石の北伐が完了したが、翌1929年にはロシア革命で成立したソ連が東清鉄道利権問題にかこつけて満洲に軍事侵攻、中国軍と衝突する(中ソ紛争、中東路事件)。中(政府と軍閥)・露・日、三つ巴の勢力争いの中、再び露が南下し朝鮮半島への脅威が迫る状況で、ついに1931年満州事変が起き、関東軍満洲全土を占領。中華民国から独立して「満州国」を建て溥儀自身が満洲国執政となる(後に皇帝)。

 このとき羅振玉は溥儀に代わって外国来賓に挨拶した。清朝の忠臣であった彼の心中はいかばかりであったか。彼は68歳で満洲国の参議府参議となり、叙勲一位、満日文化協会会長などをつとめた。1940年、74歳で没。

 

 満洲は長らく封禁の土地とされ漢人の入植を禁じていた。一方満洲族は中国に移ったため、人口空洞化していた。しかし1860年ころから封禁が解かれ移民を奨励したため、主に河北から、また山東半島から大連に向けて人が移動する「闖関東」が進み、満洲事変頃には数百万人が移り住んでいたと言われる。日本人が入植するのは満州事変以降である。