1945年8月15日以降の韓国における農地改革(朝鮮半島の土地制度の変遷)その3

 調べていると切りが無いので、ある程度の所でまとめてみたい。不足の部分は、後々追記するつもりである。

 三つの視点から見てみようと思う。1と2は主として1945年以前の内容になる。

 

  1 火田民戸数の増加からみる変化

  2 地主・小作関係の変化

  3 共産主義勢力と米軍政の対峙

 

1 火田民戸数の増加からみる変化

 火田民は、併合後増加した

 土地調査事業の終了は大正7(1918)年である。その後の統計では地主の割合はほぼ変わらないが、自作農家の割合が5%ほど、自小作農家の割合が20%近く下落し、対称的に小作農家の割合が増加している。特に昭和7・8年に大きく変化している。これにつれて農家1戸当たりの耕作面積も減少傾向にある。日本本土の地租改正と同様な経過で、土地の私的所有、換金・売買が公認された結果、地価に対する租税や小作料を負担できない農家が増加したということだ。

 

 これに対し、火田民についてみれば、昭和元(1926)年から8(1933)年までの統計では、24,316戸から82,277戸へと増加している。特に昭和7(1932)、8(1933)年にかけて40,000戸が急増している。なお、この数字は火田のみを耕作する「純火田民」の数であり、この他に、火田と熟田とを耕作する「兼火田民」がいるので、全体数はこの数倍になるという。この間、朝鮮の総人口も200万人以上増加している。

 

 【後日追加】

 朝鮮総督府統計年報で見られる火田民の戸数・人口をまとめた。兼火田民の項目もあり、純火田民よりも多いことが分かる。両者の合計人数は、朝鮮人総人口の7.1%にもなる。農民数に対しては9%ほどになるだろうか。

 また、純火田民が昭和8年をピークに減少してゆくのに対し、兼火田民が昭和11年まで増加し続け、その後漸減してゆくことが分かる。これは火田民を、定着した農民に変えようという政策の結果だと思われる。

 農業人口の内に「被傭」の項目があり、全農家戸数の3%以上が小作地を持たず、労働力を提供するだけの農民だったことがわかる。「その11」で述べるが、彼らは自小作上層農民に雇われていた、あるいは「雇只」に属していたと思われる。f:id:hibino-bonpei:20210331172323j:plain

  以上、2021年3月末に追加した。

 

 

 要するに人口増加(ほぼ農民)が余剰労働力を産み、農地の不足を来した。この余剰労働力を吸収する産業が半島内で未成熟だったことにより、離農者の国外流出(日本本土や満洲への)が起きた。満洲においては農業、本土においては鉱山や工場労働者などになっただろう。満洲への移民は昭和6年に607,150人に達し、本土への移住も、大正8年には2万6千人だったものが、昭和3年には24万人を超え、昭和8年には45万人を超えた。

 国外に出なかった者は「雇只」という農業請負団体に雇われるか、火田民となるしかなかったのだろう。

 

 火田を営むのに適した土地を求めて、半島南部の水田地帯から北部の寒冷な山岳地帯へと移動する者が多かった。半島南端の郡から移動した者も多い。森林の火田耕作は、広範囲の森林伐採から始まって、焼いた後に耕鋤(切り株や岩石を避けるので困難)し、播種する。そのため人手を要するので、数家族が同居して大きな家を構える場合もある。焼畑のみで数年間隔で移動して行く純火田民の他に、開墾後に熟田にすることを目指す者もいた。

 総督府は、彼らに田地を与えたりして火田民から農民にもどすよう努力した。それは効果があったようで、総督府の官吏として昭和12年から江原道に赴任し、郡内務課長、鉱工部鉱工課主任を務めた西川清氏によれば、赴任して10年ほどの間に見かけなくなった(普通の農民になった)とのことである。

(下の写真は西川清氏の『朝鮮総督府官吏最後の証言』桜の花出版2014 から引用)

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 しかし、1945年、敗戦後には大量の帰国者が流入し(日本本土の朝鮮人200万人のうち150万人が帰国したという)、また北部からの移動者も多かった。しかし当然ながら帰農すべき土地は無かった。失業者、貧民があふれ、食糧事情も悪化した。韓国政府は開墾事業を実施したが、上手くゆかず、入植者が山林に入って火田民となる例が数多く見られた。つまり、総督府の土地調査事業の結果と同様の理由(人口増加)によって火田民が再度発生したのである。

 1948年、韓国李承晩政府が行った南朝鮮労働党弾圧によって半島南端部から多数が日本に脱出(不法入国)。この後、1950年、朝鮮戦争が勃発、半島は戦乱の地となる。北部山岳地帯は共産軍のゲリラ戦地域となる。火田民はどうなったのだろうか。難民化した人々は再び国外(日本)に流出した。在日韓国人特別永住者第1世代)にはこの時期に密入国した者が多い。一方、昭和34(1959)年からは、日本から北朝鮮への「帰国事業」が行われ、1984年までに9万3千人が、新潟港から清津へ船で移動した(内6~7千人は日本国籍者)。戦禍の中で日本人は外地からの引揚げに言うに言われぬ苦労をしたが、朝鮮人もまた国境をまたいで流浪の苦難を受けているのだ。

 

 戦後の韓国政府による農地改革については、まだ資料不足で書けないが、火田民は、最終的には1979年に消えたようである。

 

【参考資料・論文】

 「朝鮮火田民の発生」 小池洋一

 「20世紀韓国における火田火田民の増加・消滅過程に関する分析

  :江原道の事例を中心に」 申 旼静 2010

 「火田の話」 京城日報 昭和3年6月

 「朝鮮の土地調査」 友邦協会、友邦シリーズ第一号 昭和41年1月