1945年8月15日以降の韓国における農地改革(朝鮮半島における土地制度の変遷)その7

 土地調査の様子

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  一筆地調査の様子。右から二人目の人物の足元に打ち込んであるのが標杭。

                         (朝鮮総督府『朝鮮土地調査事業報告書』より)

 

「韓国における農地制度の変遷過程と発展方向」

 ③併合以後の土地制度 続

 

 下線部1)の後半、「膨大な朝鮮王朝の所有地が日帝朝鮮総督府の所有地として転換されたについて。

 

 朴慶植の書くところでは

「多くの韓国政府・王室所有(駅屯土・宮庄土)を含む公田100万町の国有地が日本の国有地に編入され」

 たという。しかし、土地調査事業の結果判明した朝鮮の国土面積は2,225万5,160町歩、所有者確定の総耕地面積は487万町歩、その内耕作面積は450万町歩であり(差の37万町歩は陳田〈荒廃田〉等か?)、国有地は27万町歩、日本人所有地は24万町歩、朝鮮人所有地は391万町歩だったという。だから「公田100万町歩」はありえない。この数字は、国有地27万町歩に未墾地90万町歩を加えた数字であろう。

 また駅屯土(おそらく宮庄土なども含む紛争地)は12万町歩(韓国教科書では13万4千町歩という)で、ほとんどが国有地となった。他に接収地(申告の無い無主地等)が2万7千町歩あり、計14万7千町歩が日本の国有地となった。これらは上記の27万町歩に入るものだろう。これが「膨大な国有地」ということになる。

 

 李朝末期、大韓帝国期の国有地には帝室所有地政府所有地とがあるが、この区別は曖昧だった。帝室は自分たちのために任意に国費を使い、足りなければ新に税を徴収した。納税するべき耕地の面積がどんどん減少してゆく中で、国家財政は日増しに苦しくなっていた。李朝末期・大韓帝国期にも公簿上の土地が10年間で40万結減少した。

 このような財政窮乏にもかかわらず、興宣大院君は1865年に景福宮の再建を行っている。1592年の倭乱の際に放火にあって焼失して以来の再建である。しかし純宗即位後は正宮が昌徳宮に移り、1910年の併合後には景福宮の王宮としての役割は終わった。1917年に昌徳宮が火災で焼失するとその改築のために景福宮の資財が使われた。その敷地には新しく朝鮮総督府の庁舎が建てられた。総督府庁舎は1926年に完成。戦後は博物館になっていたが、1996年に解体された。

 王室経費はどのぐらいだったのだろう? 併合後の総督府予算では「李王家歳費」として毎年150万円が計上されていた。総予算額は1912年で2,978万円ほど、1918年で4,267万円ほどだった。

 

 この、課税地が減っていく理由について、19世紀初期、丁若鏞という人物が記した『牧民心書』が『土地調査』に引用されているので再引用してみる。

 

 「隠結、余結や宮結、屯結は毎年毎月どんどん増加してゆき、課税の田土は年々月々減少してゆく。どうしようもない。中央の官人は隠結とは深山窮谷の所々を開墾したもののように考えており、課税田土の外に溢れ出たものが隠結であることを知らない。則ち、荒廃の田、水崩の田、流離棄損の田が課税されて、膏腴肥沃の田は皆隠結となる。一邑の田にして肥沃のところはまず隠結に充てられ荒雑なところが課税地となるのだが、数百年来、習い常となって怪しむ者がない。若し県令がうっかりこのことを口にしようものなら、どんな怨みを買うかわからない。その上、宮結、屯結も皆課税地を蚕食するから、国の収入が益々減少するばかりでなく、凡百の賦役は皆田結から出ているのに、一たび宮房田、屯田となればこの耕作農民は賦役を免れることになる。一邑に万結ありと雖も賦役に応ずる者は僅かに三千といった具合に、民役不公平を極めるので、農民の流亡算なき次第である。」

  19世紀末でも同様であったが、この「税の不公平」を是正することも土地調査事業の目的の一つであった。

 

 『朝鮮ノ土地制度及地税制度調査報告書』朝鮮総督府土地調査局1920)によれば、当時の土地に関わる紛争の原因を四つに分けている。朝鮮ノ土地制度及地税制度調査報告書 - 国立国会図書館デジタルコレクション (ndl.go.jp)

  1)帝室財産と国有財産との区分が不明確

  2)屯田又は宮庄土の不整

  3)税制の欠陥。

  4)未墾地其の他の冒墾冒認。

 今、1)と、2)の宮庄土についてみてみる。

 1894(明治27)年大韓帝国独立と共に、1)の混交を解消しようと、内蔵司のち内蔵院を設置したが、冗費濫費のせいで帝室の収入分が増加し国庫収入分が減少した。さらにこの令にかこつけて、官僚が民田を掠め取ったりして自分の懐を肥やす方が多かった。

 1904(明治37)年、日韓協約後、日本人財政顧問のもとで経理がこの任に当たり、1907(明治40)年7月、内閣に臨時帝室有及国有財産調査局、11月、帝室財産整理局を置いた。しかし当時の内蔵院、経理院などに完全な財産原簿は一つも無く、「不完全なる量案、又は収租成冊に登記しある駅屯土、宮庄土を除くの外、土地の所在をも知ること能わざる状態なりしを以て、帝室財産整理局に於ては広告に依りて其の土地の利用を出願せしめ、間接に帝室有土地の所在を知らんことを期するの已むを得ざるに至れり。而も是等利用の出願には重複あり、誤認あり。其の調査極めて疎漏にして、啻に之に依りて土地の所在を知悉すること能わざりしのみならず、却て種種の混雑を招致するを見たり。」(前掲『報告書』、漢字・仮名遣いを改めた)

 1908(明治41)年6月、「宮内府所管及慶善宮所属の不動産は之を国有に移属し、宮内府に於いて従来徴収したる漁磯、洑税、其の他の諸税も亦国有に移属し、帝室財産整理局の廃止と為り、帝室財産整理に関する事務は臨時財産整理局に継承せられたり。(中略)国有土地の性質は斯くして依然其の旧態を存し、遂に土地調査局の審理査定を俟たざるべからざることと為れり。」

 「李朝の国初に於ては、所謂宮庄土なるものなく、各宮房(後宮、大君、公主、翁主等を尊称して宮房と謂う)は皆職田の制に依り一定の田結、即ち田土の収租権を給付せられたるものなり。職田とは品階に従い田土を給与するものにして(中略)国王の特命に依り別に田土の賜与を受けたるもの有り、之を賜田と謂う。」

 職田、賜田は当人の退職、死亡とともに返納すべきものだが、容易に返納せず、子孫まで伝授したので、当然、後世の王族、官吏に賜与すべき田結、土地が無くなった。その後、壬申倭乱(文禄の役)によって全国が荒廃し、境界も不明となったので職田・賜田の制を廃した。それで王子・王孫には荒蕪地及び禮賓寺の土地を与えるようになり、宮屯を生じ、各宮所属の所謂庄土を生じた。「各宮房所属の田土を宮房田又は宮庄土と称し、一司七宮所属の田土も亦之を宮庄土と並称せり」。これらは免税田であり、元結免税(無土免税)という、民有地の徴収権を得て、国庫に納めるべき税を自己の収入とするものと、永作宮屯(有土免税)といって、荒蕪地を開墾した土地と国庫より買収した土地から宮房に賜与したもので、田税のみを免除し、賦税(大同米)は民有地と同様に徴収するものとの二種類があった。宮屯の収租については特に管理者(導掌)を置いた。

 「宮庄土に対しては従来国税を免除したるのみならず、其の耕作人に対しても亦、賦役免除の特典あり。且つ、各宮房は努めて小作料を低下したるを以て、農民は宮庄土の小作人たることを喜び、或は自ら進んで自己の既墾田水田を宮房に請託して宮庄土の如くに装い、権門に隠れて他人の侵占横奪を免れ、且つ租税賦役を免れんとする者を生じたり。土地の投托是なり。」

 「宮庄土の管理者即ち導掌とは宮房に対して一定の税米を収めて宮庄土を管理し、其の地の収益権を有する者を謂い、其の下に監官又は舎音と云う者あり。小作人の監督及秋収の事に従うものとす。」

 ここに「監官」「舎音」が出てくるが、彼らは元々は国有地の管理者だったということが分かる。

 「導掌は元来宮房の職員にして(中略)必ず宮房より差定するを原則とし(中略)当該宮庄土に特別の縁故ある者を以て之に任ずるを普通とす。故に、一旦導掌に差定せられたる者は甚しき過失なき限りは解差せらるることなく、或は終生導掌と為り、或は子孫相継ぎ累代導掌たりし者あるに至れり。(中略)遂に個人間に於て公然導掌の売買行われ、導掌より宮房に対する納付額は一定し居るを以て、宮庄土の秋収は其の全部を挙げて導掌の任意に徴収する所と為り、幾多の弊害を惹起したり。其の売買は、導掌又は財主等の文字を使用するも、殆んど土地の売買と同一なるが如き形式を以て文記を作成し(後略)」

 1907(明治40)年(光武11年)6月、一司七宮の導掌は廃止される。導掌への補償として、3年間の収穫高を證券で下給した。処分の要綱は次のようだった。導掌の下の監官、舎音については補償されたかどうか分からない。

 「一 一般導掌の管理に係る庄土は帝室有と認定す。」

 「二 投托導掌の管理に係る庄土は本来民有なれば、該土地を還給し」

 この要綱だと、投托した土地も民有地として返されたようであり、国有地になったわけではないようである。投托であることが明確であれば、だろうが。

 「植民地下における土地調査とその性格」(全雲聖・上野重義、『九州大学農学部学芸雑誌』1987)という論文によれば、「其ノ投託ナルコトヲ明記シタル文書ヲ所持スル者ニ限リ」土地の返還をしたが、その面積はわずか160町歩にすぎなかった(林文圭、1933)。(中略)農民の理解では「投託」された土地は文書の有無にかかわらず自らの土地であった。」とある。

 1908(明治41)年6月、証憑、実地の調査を重ね、導掌の処分を完結し、宮庄土は全部が国有となった。しかし、異議を唱える者も多く、3,132件、14,232筆の紛争が起きた。その実例は調査報告書にいくつも挙げてある。

 

 

 

  大韓帝国期の統計は良く分からない。量田が行われても不完全で、結負制(結・負・束に斗落・日耕が並行)のため実際の正確な面積が不明なのだ。さらに多くが紛争地であって、正確にどれだけの国有地があるのか(誰にも)分からなかった。そこから土地調査事業の結果、どれだけが国有地と判断され、総督府の所有に移ったかという結果としてしか分からない。

 「結」数や「筆」数で書かれていても、「町反歩」でないとその前後で定量的に比較することが難しい。一応、対照表はあるが、結は6等級に分かれ、それぞれ違った長さの尺を用いているのである! また、土地調査期間10年ほどの時間経過の中で激しく変化していったので、ある一時点をとらえただけでは事の前後関係、全体像が見えにくいということもあるようだ。

 

 併合後については、朝鮮総督府の統計を元にしてグラフ化したものが「データで見る植民地朝鮮史」というホームページにあるので参考になる。「食料と農村と人口流出」というテーマで耕作地面積の変化や自作小作農家戸数の変化などが分かるが、「土地の収奪」のテーマについては作成中ということで、完成が待たれる。    

食糧と農村と人口流出:データで見る植民地朝鮮史 (sakura.ne.jp)

 そのグラフで見ると、併合後、1918(大正7)年までは耕作地の急激な増加が見られるが、それ以後はほとんど変わらない。グラフ作成者のコメントでは「土地調査事業の完了が1918年であり、それ以前の増加は既存の農地が総督府に”発見”されただけで実質殆ど増えていないと考えられます(木村、前掲論文、P631: 許粹烈、前掲書、P36-37など参照)。」ということである。 各論文は下記参照。筆者はこれらを読んでいません。

 Standards of Living in Colonial Korea: Did the Masses Become Worse Off or Better Off Under Japanese Rule?

 Mitsuhiko Kimura The Journal of Economic History Vol. 53, No. 3 (Sep., 1993), pp. 629-652 (24 pages)
 Published By: Cambridge University Press https://www.jstor.org/stable/2122408

 植民地朝鮮の開発と民衆 : 植民地近代化論、収奪論の超克 許粹烈 著,保坂祐二

 

 1918年までの増加は、土地調査によって隠結が発見されたこと等の反映ということだが、一方で未墾地の開発等も進んだと思われるので、全く耕作面積が増加しなかったわけではないだろう。この辺は東洋拓殖株式会社の記録の方から調べるのが良いかも知れない。 

 

 引用がほとんどになり、冗長になってしまっています。退屈かも知れません。

 

 朝鮮の土地制度について参考にさせていただいたブログを挙げておきます。

 「獄長日記」土地調査事業関係土地調査事業関係|獄長日記 (ameblo.jp) 

 「酒たまねぎや」李朝時代の土地制度 (tamanegiya.com)