『阿片と大砲』を読む

 雨の中、天童市立図書館に行く。

 『阿片と大砲』が、県内ではここにしか所蔵されていないのだ。入る前から「ここでお待ちください」の足跡シールがあって、社会的距離を示されるが、誰も居ないので進む。入り口が左右に分けられ、右側から入り左側から出るようにしてある。人の流れを制限しているのだ。入るとフェイスシールド(実物は初めて見た)の女性がいて、手に消毒液を吹き掛けてくれる。利用カードを持っていないので作りたい旨を申し出る。入場票のような物に住所氏名を記入する。矢印に従ってカウンターに。また住所氏名を書き免許証を提示してカードを作ってもらう。その間に開架の書棚に行きお目当ての番号を探すが無い。やはり書庫にあるので、カウンターに申し出て持ってきてもらう。本が来る頃にカードも出来て、めでたく借りることができた。

 館内は閲覧が出来ないように椅子を撤去しているようで、子どもが児童書を見ることも出来ないので利用者は本当に少なく静かだった。県立図書館同様、やり過ぎではないかというくらいに徹底しているが、図書館界では全国共通の対処法が考えられていて、それに従っているのだろうと感じた。

 

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 堀三也については、昭和通商株式会社社員の目から、「専務」後「社長」として接した人柄が書かれている。堀は会社設立当初から戦後の解散、後処理までその責任者として任を全うした。巨大にして複雑混沌の組織と社員を鵜飼いのごとく?率いていた。

 作者の山本が戦後初めて知った麻薬取引についても、当然社長は知っていたのだ。

 

 堀は昭和7年8月、陸軍省整備局動員課員となっている。また昭和12年6月、商工省外局の燃料局企画課長になり、陸軍の石油備蓄がゼロであることを憂慮し(海軍は2年分を備蓄していた)、協同企業株式会社という特殊会社を設立させ、翌13年までにアメリカなどから59万㎘の石油を買い付けた。昭和8年に「国家総動員の準備に就いて」という講演をしているらしいので、国家総動員戦争の経済的側面を良く研究していたのだろう。陸大時代には東大経済学部の特別聴講生だったという。

 大正10年陸大卒業後、2年間フランスに駐在武官補佐官として派遣されたとあり、これは新関岳雄氏の『影と声』に外国駐在武官だったとあるのと合致する。

 『阿片と大砲』ではこの駐在期間にクリスチャンになったとあるが、新関氏の著作では、陸大在学中の大正8年1月、3歳の長男明純(あきずみ)の病死が動機だとある。長男の葬儀は氷雨の中「目白教会」で行われたとあるが、今日のどの教会なのか分からない。当時の堀の住所が知りたいのだがそれもまだ分からない。夫婦ともにクリスチャンで、二人の娘さんが修道女になり、長女は堀の生前に亡くなられたとのことだ。お二人の生活した修道院がどこかも分からない。

 

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 堀の履歴については、ネット上に「陸軍少将」と書かれているが、確証が無い。また新関氏前著では「満洲軍参謀」という記述があるが未確認である。昭和7年満州事変当時、仙台第二師団の中に立山砲兵第一連隊があるが、この連隊長だったという記述も見るが、これも確認できない。連隊長だと大佐昇進以後なのだろうが。

 東条英機に嫌われて、淡路島の由良砲台長(指令部員?未確認)という閑職?を最後に予備役になったという。それを惜しんで昭和通商の専務に推したのは陸軍兵器局長の菅晴次少将(陸士25期、堀の後輩)だという。

 

 昭和通商は昭和20年8月20日に解散、清算事務は常務の宮田準一に一任された。21年10月末、山本常雄が妻と共に満洲から引揚げて来ると、八丁堀にあった昭和通商本社では堀社長、宮田常務以下が迎えてくれ、退職金5000円をくれた。

 

 昭和34年9月1日、堀三也は故郷松山町山寺山形市での長兄一郎の葬式の前夜、歎仏会の後、宝蔵寺住職佐々木喆山師(元昭和通商社員)の前に挨拶に来て着座すると同時に動脈瘤破裂で亡くなった。

 前年5月には同い年の妻九重を亡くしている。享年71歳だった。