岩下壮一と山本信次郎の関係 キリスト教信徒の軍人

 昭和15年12月6日、当時52歳の堀三也は、3日前に51歳で亡くなった神山復生病院院長岩下壮一司祭の葬儀副委員長をつとめた。葬儀委員長は63歳の山本信次郎海軍少将だった。山本信次郎は岩下壮一の義兄にあたる。岩下の妹雅子が山本の弟三郎に嫁いでいるからだ。三郎は岩下と中学の同級生で、洗礼の代父(ゴッドファーザー)になっている。岩下壮一の他の妹たちは、花子が岩倉具光夫人、亀代子が聖心会修道女となった。

 山本信次郎は岩下から「軍服を着た修道士」と呼ばれたほどのカトリック信者であり、大正8年から昭和12年にかけて東宮御学問所御用掛をつとめており、「天皇と法王の架け橋」となった人だ。バチカンと皇室の関係に関与している。

 岩下壮一の父清周は三井に入って後、現阪急、近鉄につながる会社を創業したり、南満州鉄道の総裁(監事?)になったり(加藤聖文の『満鉄全史』首脳人事一覧には記載が無い)、現三菱UFJの前身北浜銀行をつくったりした実業家であるが、晩年は自分の不二農園や温情社小学校、神山復生病院に関わった。自身も立教学院を出た聖公会信徒だった。妻幽香もクリスチャンである。

 岩下壮一は東京帝国大学哲学科で和辻哲郎と同級生だった。和辻は阿部次郎岩波書店の雑誌『思潮』編集などを通じ親しく付き合っていたが、和辻の妻をめぐって問題があり絶縁している。

 

 

 戦前のキリスト教徒のつながりが見えてくると、軍人の中にも多くの信者がいて不思議な感じがしてくる。ネットでざっと検索して、淵田美津雄(真珠湾空襲指揮官、戦後入信)吉田満戦艦大和乗員、戦後入信)牛田義彦片山日出雄(豪のラバウル戦犯裁判で刑死)林市造(沖縄神風特攻で戦死)などの名が出てくる。牛田以外は海軍である。牛田は陸士21期、陸軍砲兵大佐で昭和13年7月に予備役、昭和15年に造兵廠付になっている。終戦前6月に少将。なんとなく堀の経歴に重なる。

 

 軍人とキリスト教信仰との矛盾(汝殺すなかれ)については、いまさら言うまでもなくあまたの論説があろう。ヨーロッパのキリスト教国同士の戦争で各国の宗教指導者がそれぞれの自国の兵士のために神に祈る。彼らの神は同じはずなのに。

 戦争は人と人のこと、信仰は人と神のこと。ただ汝の職分を尽くせ、といった納得の仕方があったのだろう。日本の場合、宗教が戦争に荷担したという反省がなされているのとは、本場の西洋では違うようだ。

 「戦争」でない「謀略」の場合はどうなのだろう。人間を廃人にする阿片を取り扱うことに抵抗はないのか。これも戦争と同じと言えば言えるのか。