明治日本のキリスト教受容 不敬事件報道と井上哲次郎『教育と宗教の衝突』

 山本信次郎について、『摂政宮殿下の御日常を拝して』(山本信次郎1925)と『軍服の修道士 山本信次郎 天皇と法王の架け橋(皿木喜久2019)を読んだ。
 前者は大正14年(1925)1月に三州倶楽部での講演を筆録したもので、山本は積極的にこのような講演を行い、昭和天皇のお人柄、皇室の実際などについて宣伝し一般の誤解を解くことに努力していたようだ。彼の中では天皇と法王が両立している。というかカトリックは信徒の国家への忠誠を尊重している。

 

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     摂政宮裕仁殿下 (『摂政宮殿下の御日常を拝して』より)


 近代日本のキリスト教受容において、カトリックについては「潜伏キリシタン」が名乗り出た相手がフランス人宣教師だったこと(信徒発見)、その後「浦上四番崩れ」があったことくらいしか覚えていない。我ながら情けない。ニコライ堂正教会だし。プロテスタントには多すぎるくらいの会派があって、それぞれに教会があり、教育にも熱心でミッションスクールがこれまた沢山あるせいか、その陰で? 日本のカトリックに関しての知識が乏しい。


 明治初期、札幌・横浜・熊本の各バンドに代表されるように、プロテスタントの方が当時の若者には受け容れられたと記憶している。維新直後の若者たちは相次いで、自由民権運動的なノリで、新しい時代に新しい思想により封建的精神から脱しようとしたのかも知れない。そういう面ではルソーの『民約論』の受容などと似ていて、信仰として神に向かうという方向とはやや趣を異にしていたのではないかと思う。(学生時代にいかに不勉強で半可通であったか、七十歳に近い今頃思い知っている)


 これらのバンドの中から明治の知識人が多く出た。今、信仰と軍隊(戦争あるいは天皇制)との対立というテーマからすれば、明治24年(1891)1月の内村鑑三の「不敬事件」をまっ先に挙げることになるのだろう。内村自身は天皇制否定論者でもなく、天皇への敬意と神への信仰は矛盾するものではなかっただろう。内村の言葉として「二つのJ」とか「I for Japan, Japan for the World, The World for Christ, And All for God.」が知られる。彼の中ではキリスト教と、天皇制日本国家への忠誠は両立していた。

 

 ほんの2ヶ月ほど前の明治23年(1890)10月末に発表、下賜されたばかりの「教育ニ関スル勅語」というものへの対応については当時何の訓令も無く、校長・教頭に次いで予定外に登壇した内村は袴も着けておらず(この部分削除、他の不敬事件の例と混同したか)、戸惑う中での出来事だったのだろう。
 敬意の不足と見た教師・生徒たちからの非難の結果、後日拝礼のやり直しとなったのだが、内村は悪性の流感で起き上がれなくなり、代理が拝礼した。
 今もそうだが、マスコミが問題化し世間で騒がれることになった。少し遅れて井上哲次郎は『教育と宗教の衝突』で内村を批判した。

 以下その書物についての読後感で、長くなるのでここで読み終えても大丈夫です。

 

 井上のこの論を読んでいると(国立国会図書館デジタル版。この本は緒言、本論、付言一~四までで90頁、本論に全く章立てが無く、べたーっとしてはなはだ読みづらい。連載の区切りくらい一行空白にして欲しい。)緒言に、内村鑑三からの弁明書簡が掲載してあり、新聞報道が誤っているとの指摘がある。本人の発言していない言辞があり、それを根拠に責められても、という感じだ。それに対して井上も事実でない新聞記事を根拠として論じたのは誤りだったと認めている。じゃあこれで終わりじゃないかと思うがそうはならない。執念のごとく井上の耶蘇教論駁は続く。

 内村鑑三以外にも全国各地で多くの不敬事件が起きたと報道され、朝野の知るところとなって論争を巻き起こした。小学生が御真影を叩き落として退学処分になったとか、私立キリスト教系女学校で天長節を休みにせず、奉祝の式典もしないとか。非難と弁護の論争の中で対立が際立っていくが、この本の付言で横井時雄らが調べた各不敬事件の真相が載せられている。これを見るとマスコミの「世論を煽る捏造報道」なんて性質は明治の当時から非常に強くあったことが分かる。そしてそのフェイクニュースを根拠にして、世の「識者」が「犠牲者」を強烈に批判する風潮も変わらないようだ(新聞社から誤報についての謝罪があったのかどうかは分からない)。井上もそれらの報道に誤りがあったことは認めるが、そのそばから新たな不敬事件が報じられるものだから、井上の不審は止まない。

 

 読んでいると、新井白石が『西洋紀聞』でシドッチの語るところに反駁するのと似た雰囲気を感じた。白石は、キリストの教えと言っても、儒・仏の教えと似ていて、変わらないもののように受け取っていたと記憶する。井上も古今東西の教え、書物を引用して事細かに論じる。内容は要するに、キリスト教は「国家主義か否か」という一点に絞れる。国家に所属し、国家に忠誠を尽くす意識、愛国心を持つか否か。キリスト教は天国を自分の国とするので、地上の国家というものを蔑ろにしている。さらに神への忠誠が古来の人倫を損なっているとする。したがってキリスト教は争乱をもたらし、経済活動を疎かにさせる(この辺はナントの勅令とかユグノー戦争の例を引いている)。ローマ帝国キリスト教を国教にしてから衰退したことにもしばしば触れている。

 儒家の書はもちろん、引用している聖書も漢文なので読みづらいが、キリスト教側が示したい、世俗的権威を越えた普遍的精神というものも、井上にとっては儒家・仏家の教える人倫もまた普遍的であり、これを超えるものではない。初等教育で教えるべき道徳をキリスト教側から否定されているのは問題だと受け取っていたようである。

 近代欧米ではキリスト教が下火になり、かえって仏教が注目されているなどとも書く。彼の師匠のフェノロサ仏教徒になったからこんなことを書いたのかも知れない。

 徳川時代までの数百年間禁教であった(ずっと宗門改があった)ことが、日本人の心の底にキリスト教への不信・不安として根強く残っていたこともあるのだろう。