5月24日、暑い日だった。

 暑い。29℃とか。昨日は雷雨だった。一昨日、山寺駅の近くまで行ったが目当ての所は休みだった。駅前にはタクシーもいないし人気が全く無かった。平日だからかも知れないが、やはり疫病の影響が感じられた。山寺ホテルという古い旅館が、今はふるさとなんとか言う施設となっているので、見てみたかったのだ。疎開児童が山寺にも来ていたのだが、その辺のことを知りたいのだ。

 

 市立図書館が26日(火)から一部再開するので、借りる本をメモしておく。30分間しか居られないので準備していかなければならない。県立図書館だと禁帯出の郷土関係書籍が、市立図書館だと借りられるのでありがたい。

 何か調べたい時、ネットを探すとかなりの資料が出てくる。たとえば戦前の「日本紳士録」が国会図書館デジタルアーカイブにあったので、堀三也の戦前の住所が分かった。豊島区内で転居していて、転居先はどうも熊谷守一美術館の近辺らしい。19年には大森区(現大田区)に転居している。豊島区の住所は、母の話で近くに住んでいたという椎名町に近いので、多分昭和15年から18年くらいまでの期間に堀家に奉公していたのではないか。

 17年版の紳士録では「昭和通商専務」の前に「南昭興業(株)会長」という肩書きがある。「昭南」ならシンガポールなのだが…。この会社名で検索すると、昭和19年1月時点の「河内日本人会会員名簿」について調べた論文があった。「昭和通商」と並んで記載してある(河内とはハノイのことである)。644人のうち17人が「南昭興業」社員である。「昭和通商」は16人、「三井物産」は40人、「三菱商事」は30人以上居る。他にも多数の商社や銀行関係者が居る。何をしていた会社なのかは他に資料がないので分からない。18年版の紳士録は発行が無く、19年版ではこの肩書きは消えている。

 

 図書館から借りた本を読んだり、パソコンに向かってネットサーフィンをして調べられることにもやはり限界がある。シャーロック・ホームズのように部屋に居て、ワトソン君の持ってくる情報から推理して真実に迫る様なことは出来ない。どこからか実際に人に会わないと分からない壁に突き当たる。大学教授やルポライターなどであれば突撃取材するのだろうが、何でもない一般市民が取材するのは困難である。さらに本人が亡くなっている昔の事となると、素人はそこで止めておくのが無難ということか。

 

 堀三也の娘さんお二人は修道女になった。昭和14~15年頃フランスに神学の勉強に留学したとか、母親の九重さんより先に亡くなったとかいうが、それはどちらの娘さんだったのか。九重さんが泣きながら(たぶん修道院にいる)娘さんと電話していたという話も聞いた。大正8年4月撮影という写真には長女三重子さん6歳、次女綾子さん4~5歳?が写っているが、このお二人がそうなのだろう。