堀三也と熊谷守一は、ご近所に住んでいた(追記あり)

 堀三也の昭和時代の住所を「日本紳士録」で見ると、6年(1931)に「陸砲少佐北豊島、長崎、二九八〇」、8年(1933)には「陸砲中佐、陸軍兵器本廠附、陸軍省動員課勤務、麹町、永田町陸軍省軍務局内」とあり、この年は職務上の理由からか職場の住所になっている。9年(1934)には再び「陸砲中佐、陸軍省整備局動員課員、豊島、長崎仲、一ノ二九八四」とある。これが6年版の「長崎二九八〇」と同じ場所なのかは不明。この後14年4月発行まで住所は変わらず。11年(1936)に大佐に昇進している。14年(1939)3月9日に待命、20日に予備役となり、1ヶ月後の4月20日設立の昭和通商専務となる。

 15年5月発行では「陸砲大佐昭和通商(株)専務豊島、千早二ノ二七」とあり、おそらく予備役になったのを契機に同区内で転居したことが分かる(追記参照)。

 この住所を現在の地図で見ると、丁目・番までは分かるが号が不明なので厳密にはある一角までしか決められないが、そのブロックには「熊谷守一美術館」がある。同美術館の住所は「豊島区千早2-27-6」である。

 熊谷守一は、『モリはモリ、カヤはカヤ 熊谷守一と私(熊谷榧1990)によると「一九三二年茜(筆者注、守一の三女)が死んでから、いま美術館になっている池袋の西はずれの畑の中に小さな家を建てて引越す。引越しの嫌いなモリは、それ以来ここを動かなかった。」とあるので、堀が転居したのは熊谷守一が妻の実家からもらった一千円で家を建ててから7年後くらいであったことが分かる。「その頃、池袋の家のまわりには畑や林が残っていて、春など千川につくしとりに出かけたり、少し遠くまで行けば田圃のおたまじゃくしもすくえた。千川通りといえば、いま車二台がすれ違うのがやっとだが、モリに散歩に連れて行ってもらった頃は、信じられないような大通りに見えた。/モリは家の前の空地だった原っぱに寝っころがって、よく昼寝をしていた。両腕を頭の後ろに組み、カルサンをはいた足を組んで、パイプをくわえていた。/私は傍にうずくまって見つめる。/「大人って何を考えているのだろう」」

 

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 熊谷守一の次女、榧さんは昭和4年(1929)4月に東中野の借家で生まれたので、3歳でこの地に移ったことになる。昭和15年~19年までは11歳~15歳、自分の母フサヱの9歳年下である。当時小学生の女の子に近所の家のお手伝いさんの記憶があるはずもないが、カトリックの退役軍人さんで社長という堀の記憶は無いのだろうか。

 熊谷の家には二科会の研究生などが大勢集まっていたし(いわゆる池袋モンパルナスの関連か、二科会は19年に解散)、13、14年には個展・グループ展が目白押しだったというから結構な有名人だったのではないだろうか。自分の母の昔話に、閑散とした区域のごく近所に住んでいた、この風変わりなというか変人の画家について出てこないのは不思議な気もする。自分が聞いたのに忘れているだけかも知れないが。

 

 堀は昭和19年(1943)5月版紳士録では「昭和通商(株)専務、大森、新井宿一の二二七七」とあるので、転居したことが分かる。空襲を避けたのかも知れないが、転居先が大田区なのではあまり意味が無いような気もする。前書によれば20年(1945)4月13日に池袋周辺も空襲を受けたが、熊谷の家はあやうく焼けなかった。自分の母は空襲前にお手伝いさんを止めて帰郷していたので難を逃れた。この転居と母の帰省は時期的に関連しているのかも知れない。母は帰郷後実家には戻らず、山形市山寺の旅館で働くことになり、東京からの疎開児童の世話をしたりすることになる。

 

 〈追記〉

 念のため熊谷守一の住所を日本紳士録で見たところ、昭和13年版では「豊島、長崎仲、一ノ二六九二」、15年版では「豊島、千早、二ノ一八」と書いてあった。これは、住所番地の変更があったということか? となると堀三也も豊島区内で転居したのではなく、所番地が変わっただけなのか? また二人はご近所ではあるが、上記のように同じ一角に住んでいたという話にはならない。

 〈追記2〉

 「豊島区長崎仲」の住居表示の変遷を見ると下記のようであった。
 1932 長崎仲町・二丁目 (豊島区成立)
 1939 長崎2~5、千早1~3、要町2・3 (地番整理)
 1989 西池袋4・5 長崎5、千早1~4

     (住居表示 旧長崎東町1・2→千早1、千川町1~3→千早4を含む)

 つまり昭和13年と15年で住所が違うのは、長崎仲町一丁目から千早二丁目への住居表示上の変更で、転居したわけではない。

 戦前の住所と現在の住所とが違うのは、平成元年の住居表示による。

 熊谷守一は同じ家に住んでいるのに住所が変わっているのは、以上の理由によることが分かった。堀三也についても同じであろう。

 ただ、現在の熊谷守一美術館と戦前の堀三也の住所が同じ「千早2-27」であることから「ごく近所に住まいした」という判断は間違いだった。同じ町内であることは確かであるが。