江戸時代農民の年貢は五公五民?

 2023年10月17日、有本香と百田尚樹によって「日本保守党」が結党され、数日後に名古屋と東京で街頭演説があった。その中で百田尚樹代表が言っていたことでちょっと考えたのだが、要するに、日本の江戸時代の農民は五公五民の重い年貢で苦しんでいたと言われるが、百姓が食わない分の米を誰が食っていたか。実際には百姓にもさまざまな形で還流していたのだ。というようなことだった。

 現在の日本国民の税負担率はこの五公五民に近く、江戸時代よりも厳しいという話。

 

 当時人口の八割を占める百姓がみんな米を食うや食わずにいたとして、その分の米が最終的に大阪や江戸に集まって、扶持米になって幕臣や各藩の江戸詰めに、町の米問屋に渡って町民の腹におさまったのか?

 たしかに、江戸時代三千万人の人口で三千万石の収穫量は一人一年一石(一日三合)であったとして、百姓が米を食わない分は町民や武士が五合も六合も食っていたということになるかもしれない。しかしそれでも、町民や武士の人口に占める割合はごく小さいから消費しきれなかっただろう。

 この疑問は当然のことで、実は幕末には年貢の高が相対的に低くなっていたのだ。五公五民が表向きでも、検地がなされないために(公許の下で大規模な開発をすればその分は検地したが)、開墾された田が増えても、収穫増が表に出なければ、相対的に年貢割合は少なくなってゆき、自家消費する分が増える。田にせずに畑で商品作物を作れば現金収入ができ、それで米を買うこともできる。その結果、幕末には実態は二公八民くらいになっていたらしいのだ。

 明治末頃の「おしん」のような貧窮農民は、地租改正によって米本位から完全な貨幣経済となった社会の中で、依然として米を小作料として地主に収めなければならない小作農民が、自然災害による凶作、飢饉に襲われることで借金に追われ窮境に陥ったのだ。

 

 次のホームページがたいへん参考になります。

江戸時代の「年貢」は重かったのか? | 日本近現代史のWEB講座 (jugyo-jh.com)

 

嘉一ボックス受贈記念企画展 山形大学付属博物館

 山形大学博物館に行った。『世界一週有田洋行会「オットセイ」のブロニー君と新聞記者後藤嘉一と"大王"後藤ひろひと』という長いタイトルの展示が目当てである。

 

   

 

 大王後藤ひろひとはご存じの通り山形出身の劇作家である。後藤嘉一は彼の祖父であり、山形新聞の記者から郷土史研究家、戯曲家、市中央公民館長となった郷土の文化人である。嘉一の弟紀一は画家として著名。

 大王はしばしば、山形で死んだサーカスのオットセイ、ブロニー君について書いていて、明治四十四年(1911)の市北大火の際に焼け死んだという説を紹介している。

 実際、山形市薬師町の柏山寺には「オットセイ君 ブロニー之墓」があるのだ。だが命日?は昭和二年(1927)十月十九日と彫ってある。これを小幡圭祐准教授が考証したのである。当時記者だった後藤嘉一が残した昭和二年の全国産業博覧会の入場券他が一箱にまとめられているのが見つかったのが契機だった。薬師公園でサーカスの興行があり、「オットセイの妙技」という出し物があったのだ。自分の子供時代にも、親の子供時代(大正末~昭和初期)にも薬師公園には見世物小屋やサーカス、お化け屋敷が掛かっていた。自分の頃は木下大サーカス

 詳しくは引用しないが、ブロニー君は、実は「オットセイ」ではなく「アシカ」だった。アシカとオットセイの違いは普通の人にはほとんどわからないだろう。自分も分からない。サーカス団の経営者からして分からなかったのだからしょうがない。

 ブロニー君の死因は餌の魚と一緒に飲み込んだ小石のせいらしい。鋭い角のある石があるとそういうことがたまにあるそうだ。北の海からこんな山国の盆地まで連れてこられて死に、近くの寺に葬られるとは数奇な運命というべきか。

 

 ほかに後藤ひろひと作の絵本(飛び出す絵本の飛び出し具合がすごい)やアニメキャラの人形などが展示してあった。

 

 

映画「君たちはどう生きるか」を観た

 映画を観た。「君たちはどう生きるか」、宮崎駿の新作。

 で、感想を書こうと思う。まだご覧になっていない方は、以下ネタバレになるので読まないでください。また、人の感想なんぞに興味がないという方もお避け下さい。

 

 (最近マウスの調子が良くなくて、意志通りにクリックできない。時々誤字脱字になるのはそのせいだと思ってください。w)

 

 シニア割引きで観られるのはお得感。無職年金生活者は平日の昼に観られる。他の若い観客たちは学生さんなのかな。

 

 で、第一印象は、前半と後半でかなり違うなと言うこと。

 前半では「あやしさ」、「こわさ」がとてもよく表現されていて惹かれた。自分の狭い鑑賞体験から言ってみれば、ギレルモ・デル・トロ監督の映画「パンズ・ラビリンス」に似た雰囲気である。まあこれは個人の感性で、そうは感じないと言われればそれでいいのですが…。これは、妊娠している母(義母、母の妹)と田舎の有力者の屋敷に移り住む子供(映画では女の子)、ナナフシとパンと青鷺、そこで怪物と異世界に入ってゆくという、設定・構成上の類似だけではなく、表現される情感の類似である。

 主人公に近づき秘密の世界に引き込もうとする青鷺の不気味さ。アニメーションならではの、これは今のディズニ―にはできない表現が素晴らしい。

 後半は一気にSFじみて、この飛躍に戸惑う人も多いだろう。

 自分は、作者が四十年ほど前に雑誌「アニメージュ」に連載開始した「風の谷のナウシカ」を連想した。連載時に読んだわけではないが話にだけは聞いていた。なにしろ長い期間かかって完結したので当時全体像を知った人もなかなか少なかろうと思う。その後単行本になってから通読した。

 

                         最終巻表紙 徳間書店1995年初版

 これは超絶圧倒的な内容で、強力なエンターテインメントに支えられながら、哲学的なまでに人間の本性(善悪)を追及した(自己の内面で行われた討論)作品である。今回改めて読み直して改めて感動した。(なお映画の「ナウシカ」は原作のほんの一部を切り取ったものでしかない)

 で、「君たちは…」との類似というと、映画には作者の原点というべき諸イメージがあふれていて、それが「ナウシカ」を読むと一層はっきりと感じられたということである。あまり明確に言葉にはできないのだが、一つは主人公眞人が自傷跡を示し「自分には悪意があり、世界を預かることはできない」と言うところ。これが、「王にはならない」と言うクシャナ、新世界を生み出すために作り替えられた人類が、滅びる運命に抗い、用意されている「理想的(善人)」新人類を否定(殲滅)するナウシカに似ているように感じられたということだ。

 つまり、闇と光を内に持つ人間は人間の王にも世界の神にもならない(なるべきでない)という強い「意志」である。(じゃあどうするんだという疑問への答えは当然のことだが、無い。)

 もう一つは、作者の世界に濃密に表れる「母性」である。映画では眞人と夏子との関係にそれが表れているか。母子の関係にみられる緊密な愛情と、一方で個々の人間が抱える善悪の意識から生まれてしまう信頼と裏切り。一点に向かう愛が必然的に無数の犠牲を生むという矛盾。子を救うために母は自ら命を捨てるか。母を救うために死ぬ子は幸せだろうか。

 

 人間の直観や感性や思索の根幹は30代にはもう絶頂に至り、70代80代にはその延長で様々な事柄を整理するしかできないのかもしれない。宮崎駿は充実した青年期と老後の仕事を持つという幸せをつかんだ人なのだろう。

 

 勝手なことでした。お目汚し、まことに失礼しました。

雑感 20230901

 何も記事を書かない日が長いのは暑いせいです。という言い訳も納得いただける気候でしょう。気象庁が「異例、特別」というくらいなのだから。

 あまりに暑いので、生命維持装置(エアコン)の付いたシェルター(部屋)から出られない日々である。ここ二三日、暑いながらもなんとなく秋めいた空気を感じ、草取りや洗車をしてみた。全身汗みどろだが、死ぬほどではなかった。

 しかしまあ今日午後の暑さは恐ろしかった。

 大江町では農業用の溜池が干上がりそうだというニュースがあった。

 

 このブログで連載した「朝鮮半島における土地制度の変遷」の中で触れたが、1939年(昭和14)の朝鮮大旱魃のような自然災害が食糧問題を惹き起こす。未だ農業用水路の完備されない、天水(溜池)頼りの農業は壊滅的な打撃を受けただろう。

 一方で極端な降雨量の増大が世界中で未曽有の水害を起こし、異常高温が広範囲の山火事を起こしている。一方では世界の穀倉地で戦争をしている。これら世界中の農地の被害、荒廃がどれほどの食糧減産につながるのか。歴史の中では何度も繰り返された飢饉が来るのか回避できるのか、恐ろしい。

 まあ日本人は80年ほど前には草も食うほどの食糧難だったが、国民皆が平均的に飢えて、比較的平等だったといえよう。そりゃ若干ズルした人もいただろうが、またそうやってみんなで耐え忍ぶこともできるだろう。いや「国家の統制」を嫌う人は反対するかもしれないな? 反対しても誰かを非難しても食糧の総量が増えるわけではないが…。

 

 まあ、幸いにも「日本の水産物を買わない、食べない」宣言をしてくれた国があるので、魚や海産物は大丈夫かもしれないw。サンマなんか獲りに日本近海に来ないでね。かの国はいままで「退耕還林」と国土緑化、環境改善に励んできたのに、食糧不足が心配になると一転して「退林還耕」に変じ、森林を農地に、果樹園や緑化公園を穀物の田畑に変えようとしている。いつまで日本近海の魚を食べないでいられるかわかったものではない。

 しかし国民の反日行動は、2012年の尖閣国有化に反対する暴動のようには過激化しないだろう。あまり焚きつけると、民衆(被災者及び政治無策の被害者)の抗議はたちまち政府、共産党への激しい抗議の暴動に転化してしまうだろうから。

 また台風が近づいているようなので命だけは大切に。あちらでは突然ダムを放流したり、堤防を切ったりするので大変だが(まだ水が引いていない所もあるとか)…。

 

関口教会に行き、ルルドの聖母像を拝見する

 文京区の関口教会にある「ルルドの泉」 2023年7月18日(火)

 

        

 堀三也、九重夫妻の写っているこの写真について、場所は関口教会の「ルルドの泉」前であろうと判断したことは前に書いたが、このたび現地を訪問し確認してきた。

 現況は、夏ということもあって植物が繁茂し、蔦が岩壁を覆っている。

 聖母像の帯が鮮やかな青色に塗ってあるが、三也の写真ではそれほど色の違いが見分けられない(若干裾の波打つ形や全体的大きさが違うようにも見えるのであるいは補修したのか?)。本物に倣ったフェンスの鉄柵はなくなっている。

 

 夫妻の隣に立つ神父はヨゼフ・マリウス・シャルル・フロジャック(1886ー1959)で間違いないようである。神父が関口教会に赴任したのは大正六年の十二月のことで、この写真が撮影されたのはその後のことと判断できる。

 

     

       関口教会主任司祭当時のヨゼフ・フロジャック神父(Wikipediaより)

 

 右側の岩壁に取り付けてある銘板(といってよいか)は感謝状のようである。下の写真は柵内に入って撮影したもの。偶々ご案内いただいた教会のH野さんが鍵を開けて入れてくださった。突然訪れたにもかかわらずご親切に、ありがとうございました。

 

  

 「ルルドの聖母に感謝と敬愛を捧げる」のような内容である。今は 7 8枚あるが、三也の写真では4枚である。この4枚の中で最も古いものは、この「ルルドの泉」が建設された明治四十四年(1911)の二月十一日のものである。

 

 「4枚」と書いたが、別の写真を見ると5枚かもしれない。燭台の陰になってわからなかったが、一番下の段左側にもう一枚古い(文字が読めないほど)ものがある。今はこれを入れて8枚である。

    

 

 

 中に漢文の一枚がある。だいぶ薄れているので読みにくいが、写真を頼りに書き取ってみた。訓読してみたが、最初の「茲」の意味と最後の名前が不確かである。「頼 松一」かもしれない?

 

              茲       茲に 

     拝 謝 既 往    拝謝す既往の恩寵

     之 恩 寵 

     俯 祈 将 来    俯祈す将来の佑助

     之 佑 助

        大正四年五月           大正四年五月

          頼、松、一        頼松 一

 

 フランス語の銘板の日付から見ても、大正五年(1916)二月以降の撮影であることは確かである。

 

 大正七年以降、三也夫妻が礼服で教会で記念撮影をするような機会とはどのようなものだろうか。まず、大正十年十一月の陸軍大学卒業(33歳)が考えられる。前々年の大正八年一月に長男明純(あきずみ、3歳)をジフテリアで亡くし、関口教会で弔って以降、熱烈なカトリック信者になったといわれる。

 あるいはフランス駐在武官として赴任する時か…。

 

 フロジャック神父は赴任直後、大正七年一月に関口教会の主任司祭となったが病床に倒れ、終油の秘跡秘蹟)を受けた(当時は臨終の者に対して行われた)。ところが、ルルドの聖母の祝日(2月11日、銘板にこの日付が見られる。紀元節というわけではない)に突然快癒したという。(社会福祉法人慈生会のホームページ「ヨゼフ・フロジャク神父の略歴」による)

 フロジャック神父は昭和34年(1959)12月12日夜、「さよなら」の一語を残して帰天した。時に73歳。堀三也の死からわずか三か月ほどのことであった。

 

 堀三也は、成城教会の聖堂建立に携わった大越菊次郎神父とも親交があったとも教えていただいた。

 

堀三也夫妻とルルドの泉の写真 - 晩鶯余録 (hatenablog.com)

「埋立」西側堤防跡を歩く

 前の記事で「埋立」に触れたが、埋め立て工事の経緯については『堤防落成記念碑』の碑文によってわかる。この石碑は高さ数メートルの大きなもので、護国神社の真裏に木立に囲まれひっそりと立っている。正面は南側埋立地の方を向いているので、護国神社本殿との狭い空間から見るようになる。二重堤防があったのは馬見ヶ崎橋までなので、本当なら橋詰めのバス停留所向かいの公園辺りに立てるのが良かったように思う。少し探してしまった。

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 後日補記 

 この石碑の近くに陣没軍馬の慰霊碑があるのだが、これは元は馬見ヶ崎橋の西詰、山形交通バス停留、待合所の近辺にあったものを現在地に移したということである。とすると、落成記念碑も同様に、初めは馬見ヶ崎橋の所に立てたのを後で護国神社社殿の裏に移したのかもしれない。

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 碑文は明瞭に読むことができたので、写真に撮って書き取った。裏面には市議会議員などの名前が列記してある。

 昭和二十四年の地図を見ると「千歳宮」とあるのが護国神社である。もともと宮町にあったのが昭和九年にこの地に遷座されたもの。当時の呼称は「招魂社」だったが、十四年に「護国神社」に改称。戦後の占領期間は国家神道排除のために名称を「千歳宮」に変えていたのだ。二十七年からは「護国神社」に戻ったはずだが、昭和三十八年の地図でも「千歳宮」と書いてある。さらに昭和五十五年版の地図でも千歳宮と護国神社が併記してあるのは不可解である。

                                塔文社昭和55年版山形市大地図

 昭和四十七年ころ、NHK放送局は香澄町に移転し、その跡には旅籠町の市役所南にあった消防署本部が移っている。旧消防署本部は今は市役所の立体駐車場になっている。

 

 まず南端から歩き始める。上の地図では緑町郵便局からちょっと上った所からになる。郵便局の隣は鯛焼きと団子の店「わかば」。

 北を向いている。右側に石垣が見えるのが堤防の跡であろうか。するとこの上、右(東)側が埋立地ということになる。左(西)側は公園になっているが、落ち込んでいるのでこの道自体が堤防だったのだろう。消防署は電柱の向こうの建物。裏道になる。

 消防署表側に上がってみる。埋立の中央を南北に道路が通っていて、完成当時に両側に桜が植えられた。この道は護国神社まで続いている。道路を挟んで河原側に消防署の訓練場がある。道路南、突き当りになっている辺りから手前が埋立。山は千歳山。

 堤防跡と思われる道にもどって北上する。双月橋(昭和三十八年にはまだ無い)からの通りに出たところで振り返る。

    

 あまり高低差を感じない。道を渡って、さらに北上する。

  

 どんどん下っているが、左右の高低差は感じない。この先、製麺所の所で山形北高校グランド脇の道と合流する。

 南を向いている。左が今来た道。右が北高校グランドからの道。明らかに高低差が分かる。右の道からさらに一段落ち込んでいる。右の道を奥(南)に行くと、

 右が北高校のグランドで一段落ち込んでいる。道は奥の方の北門辺りがより高く、グランドは平らなのでかなりの落ち込みになる。以前は北門のすぐ下に古い校舎があったので、北(手前)に曲がってグランドに下りる急なスロープがあった(今は西に直進するなだらかな坂になっている)。その建物は旧師範学校時代からのもので、北高校になっていつのころからか部室棟になっていた。グランドの向こうの大きな建物は警察官宿舎。

 この道は埋立の堤防ではなかったはずで、これは学校のグランド整備のための段差なのだろう。グランド西(右)端と校舎との間がまた2メートルくらいの段差になっている。幼いころ、旧師範学校の校舎を解体する工事の際、土地が段々になっているのを見上げた記憶が薄っすらとある。北高校が香澄町から現在地に移転したのは昭和三十八年(1963)のことで、その際、旧付属小学校の校舎が取り壊されるのを見たのだろう。

 

 北上すると左(西)が落ち込んだ地形を見られる場所があった。右へ続くのが堤防跡の道で、左側、堤防下への道は緩く下っているが、家屋はその坂からさらに低い位置に建っていることがわかる。

 さらに進むと、急な坂を見つけた。

    

 右側のお宅のように路面の高さに合わせて駐車スペースを設置している家が多い。

 

 さらに行くと、円応寺の堤防跡で見たような階段が何カ所かあった。

  

 

 やがて出た道は左が山形工業高校の角になる。右には護国神社の鳥居に向かう参道がある。参道は埋立中央を南北に通る桜並木と並行する別の道である。

 

 さて目の前にどこかで見たような景色がある。円応寺の堤防跡を探した時と同じだ。

 

     

 私有地なのかもしれないが、意を決して前進する。

     

 草の中を進むと前方が開け、護国神社社務所神社庁らしき屋根が見えた。左側は落ち込んでいて石垣らしきものもある。

 舗装された場所に出たので、振り返って見る。

       

                                      

 正面が護国神社。参道は右側。ここが堤防(埋立)の終点になるのだろう。

 

 

                    いき出版『写真アルバム 山形市の120年』より

 昭和三十一年、埋立の北端から南を望む。左が馬見ヶ崎川。スキャンの際、綴じ目で黒くなっている部分が埋立中央の桜並木の道。左下に、今は護国神社裏に移されている陣没軍馬慰霊碑の頭が写っている。山交バス待合所の所にあった消防の東署望楼から見ている。

 中央奥に千歳山が見えるが、その手前にNHKの高い鉄塔が見え、埋立を一望していることがわかる。

円応寺の旧堤防を歩く その2

 まず球技場西側を北上する。下の写真は、南側千歳公園方向を見たところ。手前に上り坂になっている。

 

 すぐ終点。急な下り坂になっている。

 

 終点を下りたところから振り返る。左上のフェンスは球技場の駐車場。

 

 少し進んで振り返る。入り組んでいてわかりにくい。

 

 

 道に出ると右前方に土手らしきものが見える。家屋の右に細い道が並行している。

 

 登り口を見上げる。

 

 右側の細い道を入ると堤防を横から見ることができる。石垣になっている。ここはそれほど高くない。ここでたまたま逢った方と少し話をし、昔の様子をお聞きした。

 

 

 少し進む。この下の道は私道であるそうだ。背後の家々の前に細い水路があるが、水はなかった。目の前の階段を上ってみる。

 土手の上も舗装されて道になっている。こうしてみると平地のようだが、両側とも落ちている。南を向いて撮影。

 

 北を向く。遠くに軽トラックが駐車している。あとで走行しているのも見た。

 

 途中に東側に下りる大きな階段がある。土手沿いの私道はここで堤防から離れる。ここは結構高く見える。

   

 終点近くから南を振り返る。さっきの軽トラック。

 

 終点。

 

 終点を振り返る。

 

 ここから左(東)へ行くと二口橋。右(西)へ行くと銅町。背後にはもう土手は無く、公園があった。

 (写真は、車のナンバー、表札や洗濯物をぼかしました)