嘉一ボックス受贈記念企画展 山形大学付属博物館

 山形大学博物館に行った。『世界一週有田洋行会「オットセイ」のブロニー君と新聞記者後藤嘉一と"大王"後藤ひろひと』という長いタイトルの展示が目当てである。

 

   

 

 大王後藤ひろひとはご存じの通り山形出身の劇作家である。後藤嘉一は彼の祖父であり、山形新聞の記者から郷土史研究家、戯曲家、市中央公民館長となった郷土の文化人である。嘉一の弟紀一は画家として著名。

 大王はしばしば、山形で死んだサーカスのオットセイ、ブロニー君について書いていて、明治四十四年(1911)の市北大火の際に焼け死んだという説を紹介している。

 実際、山形市薬師町の柏山寺には「オットセイ君 ブロニー之墓」があるのだ。だが命日?は昭和二年(1927)十月十九日と彫ってある。これを小幡圭祐准教授が考証したのである。当時記者だった後藤嘉一が残した昭和二年の全国産業博覧会の入場券他が一箱にまとめられているのが見つかったのが契機だった。薬師公園でサーカスの興行があり、「オットセイの妙技」という出し物があったのだ。自分の子供時代にも、親の子供時代(大正末~昭和初期)にも薬師公園には見世物小屋やサーカス、お化け屋敷が掛かっていた。自分の頃は木下大サーカス

 詳しくは引用しないが、ブロニー君は、実は「オットセイ」ではなく「アシカ」だった。アシカとオットセイの違いは普通の人にはほとんどわからないだろう。自分も分からない。サーカス団の経営者からして分からなかったのだからしょうがない。

 ブロニー君の死因は餌の魚と一緒に飲み込んだ小石のせいらしい。鋭い角のある石があるとそういうことがたまにあるそうだ。北の海からこんな山国の盆地まで連れてこられて死に、近くの寺に葬られるとは数奇な運命というべきか。

 

 ほかに後藤ひろひと作の絵本(飛び出す絵本の飛び出し具合がすごい)やアニメキャラの人形などが展示してあった。