やっとPCに向かえる気温になった

 30℃を超える日も少なくなって、大分過ごし易くなった。

 郷土史専門の方に今まで調べたことをほぼ全てお話しして、何か腑抜けたようになってしまった。もっと読むべき資料もあるのだが、暑いのを理由にして冷房の効いた家に閉じこもっていた。ただ、自分の部屋には冷房が無い(扇風機だけ)ので、パソコンにも向かえないでいた。

 

 父方の戸籍から系図を作ってみた。父良助は養子ということになっているが、これは父の両親(自分の祖父母)が駆け落ちして産んだのでそうなっているのだ。祖父竹治は祖母ヱンの入り婿だが、あまり養父母に好かれず、ヱンが婿竹治とともに家出してしまった。娘が実家より夫を選んだという話。

 長男清と次男良助は祖父の実家の阿部家の戸籍に入れられた。それで祖父竹治の兄邦五郎の子になっている。次男が生まれてやっと親子四人がヱンの家に入ることができたのである。で、戸籍上は二人は阿部家からの養子となっている。この阿部家については今、全く分らない。

 前にも書いたが、良助の1歳下の弟良作は沖縄戦で戦死している。機関銃隊で29歳だった。「平和の礎」の資料では戦死の日時も場所も不明とあったが、戸籍を見ると、昭和20年6月20日沖縄諸島方面で戦死とある。4月から始まった沖縄戦も6月には最終段階に至り、勇戦敢闘の第24師団歩兵第32聯隊は沖縄本島南端国吉の壕に立て籠もり戦っていた。6月20日頃、摩文仁で牛島司令官以下軍中枢が自決し、日本軍は組織的抵抗力を喪失した。ひめゆり部隊の壕も米軍の黄燐弾、爆薬の攻撃により壊滅した。おそらく、多くの日本兵の戦死月日は不明で、都合上公報ではこの6月20日としているのではないかとも思える。しかしまた事実この日であれば、叔父良作の戦死の場所は、あの山形聯隊最期の壕近辺であろう。遺骨は沖縄の土になったのだ。第32聯隊の降伏は8月29日である。

 その下の弟2人と妹1人は若死にしている。末の妹だけが存命である。

 

 下書きのままの記事もあるので追々公開するつもりです。