言論・思想信条・表現の自由と言葉の暴力 

 元総理大臣安倍晋三氏が暗殺された。

 安倍晋三氏のご冥福を心よりお祈り申し上げます。

 

 衝撃的な事件であり、とりかえしのつかないことに、悔しさと無念さ、怒りと悲しさを感じている。

 そして言葉の暴力とその影響について考えている。

 特定の人々の言葉はマスコミを通じて、インターネットを通じて、国民の間に拡散されている。名のある人の言葉もあれば、ある集団としての言葉もある。国民はそれらの言葉を繰り返し聞かされることで、ある既成概念を持つようになる。

 

 「言論の封殺」という言葉も流れている。政治家たちは立場の左右に関わらず、この銃撃による、選挙活動中の政治家に対する殺害を「民主的言論を封殺する暴挙」と非難している。野党側には、これから与党政権を批判する立場としては、以後の言論活動に影響してはならないという懸念もあろう。言うまでもないことである。

 

 一部の人は、元首相が亡くなった途端に、生前の「疑惑」の数々が忘れられたように追悼一色になっている事への違和感を流している。これをマスコミの偏向であるといい、すぐ忘れる民度の低い国民にかわって疑惑は追及し続けるという人もいる。

 

 そして民主政治の根幹は普通選挙である。「一発の銃弾ではなく一票の投票で政治を動かそう」という言葉も流れている。

 

 安倍晋三氏が総理大臣であった期間、国政選挙はことごとく与党の勝利だった。この結果は「民意の表れ」以外の何物でもないだろう。しかし野党側の人々にとっては不満な結果であり、納得のできないものであったろう。

 人間じゃない、叩き切ったる。と叫んだ野党共闘の主導者がいた。

 アベ政治を許さないというスローガンを吐く作家、それを揮毫した老俳人もいた。

 アベはヤメロと毎夜国会前で連呼するグループがいた。

 言論の自由、思想信条の自由が保障されている日本において、このような発言は許される範囲なのであろう。アベをプーチンやジンピンやジョンウンに置き換えたら逮捕されなければならない国の人々は不幸である。

 

 選挙運動期間中、演説を妨害するように横断幕を広げ、スローガンを大声連呼し、SPが前面に出て警戒しなければならないほど緊張した状況を作ることは、言論の自由の範囲を逸脱していないか。これは言葉の暴力というのではないか。立場は違っても相手の言い分は聞くというのが民主主義ではないのか。それとも彼らは、安倍晋三氏が隣国にいるような独裁者で、国民運動を巻起こして打倒しなければならない人間だと本気で思っていたのか。世界中の指導者が安倍晋三氏を悼み、その死を悲しんでいるのを見聞きして、それらは単なる外交辞令に過ぎないと本気で思っているのか。

 こんな人達に負けるわけにはいかないんですという、こんな人達はそんな人達であり、そんな人達の、度を超した言論の自由、思想信条の表明、表現の自由を守れというのは本末転倒なのではないか。

 

 春秋の筆法をもってすれば、ある人に言葉の暴力を加え続け、世間に流布させ、無前提に非難されて然るべき人という、根拠のない認識(レッテル)を定着させた結果、今回のような狙撃者を生み出してしまったとも言えるのではないか。

 

 むろん、徹底して議論することは言論の自由であり、言葉の暴力とは全く違う。言論の府国会を私設裁判所のようにし、閣僚や官僚を罪人のように扱った日々が異常だったと思わないか。

 

 アベはヤメロのスローガンがマスコミを通じて流れ、モリカケサクラという言葉が、何か秘密の符丁のごとく蔓延する。国民はその連呼に染まってしまった。真実はさておき、どう説明しようと、安倍さんてなんとなく嫌いだという気持ちが染みこんでいく。

 

 この場合マスコミは野党側にとって都合の良い宣伝媒体になっていたではないか。マスコミの洗脳は野党側に有利に働いていたではないか。今になってのマスコミ批判はお門違いなのでないか。

 

 生前、安倍晋三氏の持病を事細かに調べ上げ、いよいよ重症化して入院かといった記事を喜々として書き連ねるブログもあった。あらためて見てみると、没後のマスコミの扱いにはやはり不満たらたらの様子であった。人様が賞賛されるのを厭い、不幸を笑い、期待するという精神は恐ろしく貧しいものではないか。

 

 いささか混乱しているので失礼な文言があるかもしれませんがご容赦ください。