常識

 久しぶりの更新になる。

 毎日が決まり切った順序で淡々と過ぎていくので、時間がループしているような感じだ。

 が、季節は進んでいき、植物はどんどん伸びて姿を変える。それを(草を)せっせとむしったり抜いたり刈ったりしている。
 今年は竹の子を何本か切らずに残したところズンズン伸びて一丁前の高さになっている。風が吹くとかなり揺れる。古い、もう葉が出ていない黒い竹を切ると、ちょうどいい具合の竹の棒になった。


 最近、2年生に聞いたところ、三島由紀夫を知らない、「誰それ?」状態の子がクラスに数名ずついた。自分の高校生の頃の常識と今の高校生の常識とは、完全に変わってしまっているのだ。まあ、自分がとっくに定年に達しているのだから当然ではある。

 常識が変わってしまったと言えば、今の若い人には自民党支持層が多いのだそうだ。若い者は政治的にも思想的にも反体制的な指向を持つ、という常識がもう変化してしまったようだ。

 高校演劇でも、一頃のようなガチガチの反戦芝居をやらせる顧問はもういなくなったようだ。


 16日に『まつろわぬ民2017』という音楽劇?を観た。休憩なしの2時間半。東京高円寺からいわきのアリオス小劇場、そして山形のシベールアリーナで千穐楽。その千穐楽夜の部だった。
 T田先生に逢う。W辺T山先生が今回の上演の実行委員の一人だと聞く。確かに来場していた。

 開幕前から舞台が見えているが、暗くて何があるのかよくわからない。この小屋はしっかり暗さが確保されている。開演とともに見えたのは、蔦だか根だかに覆われた巨大な黒いゴミ袋の山。その中に様々な物があり、戸や梯子、二階に窓と屋根があって、全体的には家らしく見える。
 この装置(美術)が大変化するのが見物だった。最後の方では屋体崩しのようなことも起きた。
 昔の劇団3○○の装置のようだと思ったりした。
 総じてスペクタクルというか、大仕掛けである。前半の百鬼夜行、後半の建築物解体重機?対伝説の蝦夷たちの魂?のバトルなど、なかなか手が掛かっていて見物ではあった。段ボールなんですか、あれ?
 そして酒田出身の歌手、白崎映美の歌。いや、盛り上げようというパワーがすごい。
 惜しむらくは、白崎映美のユニークな歌声の語っている言葉(歌詞)が、ほとんど聞き取れなかったことである。自分の席の位置によるのか、自分の耳のせいなのか…。そのためか、途中で意識が途切れた部分がある。あれだけの音量の中でも寝られるのである。

 最初に感じたことは、ああこれは「よろずやマリー」だ、ということだった。ゴミ屋敷に住む老婆。ゴミはゴミではなく、奪われうち捨てられた記憶である。同じような発想をする人はいるものだなあと思った。
 そこから先は、2時間半という長さなので、時代を飛び時間は重なり、ミカドの軍と戦うのだが、現在ではゴミ屋敷解体業者との、いやその背後にいる利権絡みの業者と国会議員の企みと戦う。(女性国会議員の衣装がなんとなく吉村県知事みたいで可笑しかった。(いや、格好だけのことで、利権がどうこう言うわけではない)

 これは反権力そのものだが、先に書いたように、こういった発想はもしかしたら我々世代のもので、今の若い世代にはぴんとこないかもしれないという大きな疑念が拭い去れないでいる。

 幕後スタンディングしている観客。でも、もしかしたら、これは何か過去の延長に過ぎず、新しい波に乗れるものではないのではないか。10年後に再演したとして、果たして新しい観客にどのように受け止められるだろうか。自分はなんだか一人離れているような寂しい感じがしていたのだった。

 無条件に、無前提に、権力は悪、体制は変革すべきもの、保守政権は倒すべきものという「常識」が、もう常識ではないのだとしたら…。

 だってそうじゃないですか。アベハヤメロと連呼することができるなら、レンホウハヤメロとも言え、シイハヤメロだって言えるんじゃないですか? それは保証された内心の自由ですよね。いや、共産党が政権を取ったときにシイハヤメロと言えるかどうかは疑問ですがね。

 そういうことに思い至らないようになっている我々とは違うのが、今の若い世代なのだと…
 
 参議院で投票する山本太郎議員や福島瑞穂議員などの姿を今の若者がどう見るか。彼らは、恥を知るべきは誰なのか、我々世代とは違った目で見ているのではないでしょうか。
 それが好ましくないことなのか歓迎すべきことなのか。

 蝦夷を征討した坂上田村麻呂阿弖流為をだまし討ちしてまで東北を平定したわけだが、これは江戸時代の北海道経営で松前藩がしたことに似ている。たぶん、異民族への視点があったのだろう。
 アメリカ大陸で、ヨーロッパから来た人々がネイティブを絶滅させるためにバッファローを撃ち殺しまくったのと、明治政府がアイヌに自由に鮭や鹿を捕れないようにしたのとは通底しているように思う。それは現在の感覚からしても許しがたいことではある。
 アメリカ人は大概人種差別主義者だったんだろう。だが、強い者には逆らえない。国際連盟に日本が提出した人種平等案をアメリカ大統領が、満票でないことを理由に否決した。日本はそのアメリカと戦って負けたが、アジアの国々は独立戦争を戦ってヨーロッパ列強に勝ち、植民地から独立した。奴隷だった黒人はついに平等な権利を獲得した。もし、あのとき日本が欧米と戦っていなかったら、今、世界はどうなっていただろうか…。

 いや、呑んでるので段々訳がわからなくなっているのですが、共謀罪? 組織的犯罪防止法案についての議論を聞いていると、野党はただひたすら、首相が自分に近い人間の利権のために圧力をかけたこと、そして国民の内心の自由を制限しようとするものでうけいれられないということに集中していたように思う。単純にいえばアベハヤメロしかない。そういう言い方については、自分は納得できないでいる。
 暗黒の戦前に回帰しようとしているというが、そもそも戦前の状況が事実とは異なる姿にされて喧伝されているように思う。映画に見るような特高の拷問なんて、よっぽどの共産主義者かスパイでなければ考えられない。小林多喜二は非合法な共産党員で、地下活動をしていた。
 戦前戦中、国家は間違っていて共産党が唯一正しかったなんて自分は思いませんよ。転向しなかった党員が英雄のように扱われるのは、それは自分の主義主張に殉じるという姿勢はある意味共感しますが、他の日本人が正しくなかった、あるいは盲従、あるいは仕方なく悪に荷担していたというようなことは言えないでしょう。
 まして天皇を否定し、国家という構造を破壊しようとする(T元K美のような)勢力は全く認められないではないですか。一般的な日本人は天皇を崇敬していて、必要だと思っていますよ。
 ミカドが全国統一のために諸部族を「言向け和す」中で、従わない者と戦いになってしまう。これはヨーロッパの英雄伝説のようなものではないでしょうかね。
 東北地方には鬼になって舞う行事もあるけれど、たいてい坂上田村麻呂を敬っていないか。時代を下って、凄惨な戦いで安倍一族を倒した源頼義、義家などの伝説の方が残っていないか。
 つまり、今の東北人は多くが後世に南から西から移り来た人間なのだ。鬼と自認する蝦夷の末裔などどこにいるのだろうか。

 ああ、なんだかめちゃくちゃなことを書いてしまったが。酔余の戯れ言と読み流してください。